化学療法の先駆者 志賀清-その2
明治34年(1901年)から、ドイツのエールリッヒ研究所に留学して、アフリカの風土病である睡眠病の治療薬を発見し、化学療法を世界で初めて発表した。さらに結核などの病原体の研究で化学療法の先駆者として活躍する。3年後に帰国して北里研究所の研究部長として活躍する。大正9年(1920年)、慶応義塾大学医学部の細菌学教授になって間もなく、日本統治下の朝鮮に渡り、朝鮮総督府医学院長、京城帝国大学(ソウル大学)総長を歴任し、11年間にわたり朝鮮の医学教育、医学行政に深く関わった。また当地で蔓延していたライ病(ハンセン病)の保健、治療にも携わり大きな業績を上げている。大正13年(1924年)フランスで、志賀はパスツール研究所から直接BCG菌株を譲り受け、北里研究所で継代培養した。
昭和17年(1942年)その株によって日本でもBCGの集団接種が始まり、今も使われ続けている。この株は生菌の割合が高い優良株で、結核の予防効果のみならずライ菌にも予防効果が認められている。最近、山中伸弥教授が日本人は他国と比べて、新型コロナウイルスの感染者や死者数が少ない要因の一つとしてBCGを挙げている。BCGの関与が確認されれば日本にもたらした志賀の功績となる。志賀は妻と長男に先立たれ、さらに昭和20年(1945年)に東京大空襲で東京青山の住居を焼け出され、仙台に疎開した。ここで降霊会に感心を持ち、旧友で同じ境遇にあった土井晩翠と「東北心霊科学研究会」の顧問を務めている。まもなく亘理郡坂元村磯浜(現在は亘理郡山元町)の別荘・貴洋翠荘の次男宅に移り、穏やかな自然の中で回想録を書き海岸を散歩して、静かに清貧な余生を過ごした。
志賀は終生北里を尊び、人を救う研究に打ち込んで人生を全うし、昭和32年(1957年)この地に永眠した。行年88歳、墓は青葉区北山の輪王寺にある。晩年の著に『或る細菌学者の回想』がある。文化勲章受章、仙台名誉市民、山元町名誉町民に。山元町歴史民俗資料館に志賀の遺品と資料が展示されている。「仙台藩は戊辰戦争に敗れ朝敵となり、肩身の狭い思いをした」と『回想』で述懐している。常に謙虚であった志賀が、多くの業績を残したのは、東北蔑視を見返してやろうという気概が根底にあったからと思われる。山元町磯崎山公園の記念碑に「自ら信ずる所篤ければ、成果自ら至る」と刻まれている。志賀は内気で人づき合いも苦手だったが、ひたすら研究に打ち込み、日本の細菌学の化学療法の先駆者となった。昨年、生誕150年を迎えた。世界各国から高く評価され、世界史にその名を残している。