9年目の憂鬱
あの東日本大震災から、もう9年もたったのですね。沿岸部のどこの町を訪れても、道路は整備され建物も真新しくなり、震災以前とは比べものにならないくらい立派になりました。でも、以前にそこに住んでいた人たちは、すでにほかの町に引っ越し、人口は以前に比べると大きく減少しているようです。復興工事が終了すれば、元の住民が戻ってくることが期待されますが、それぞれの事情もあり、そうもいかないように思います。元々、町というものは、集落が発展し大きくなってできたものですから、町が大きくなったので、人が住むようになったわけではありませんが、時が経つとどちらが先かはわからなくなってきます。しかし、行政主導でインフラを整えても、全体の人口が減少している現状では、入れ物を整備すれば、そこに住む人が増えるという方程式は当てはまらないように思います。やはり基本は、そこに住みたいという人が自然に集まり、町がかたちづけられていくもので、町が整備されれば人が集まるというものではないような気がします。50年後の宮城県の人口を考えると、町はできたが住む人がいないという状態も想定して復興を考えるべきではないでしょうか。
もちろん、ボクとしても住みよい街で暮らすことは嬉しいことですが、日本のおかれている現状を考えると、最も優先順位が高い施策は、子供たちが安心して質の高い教育を受けられる環境を整えることではないでしょうか。快適な空間が教育をするうえでも重要であることは理解できますが、先人たちの功績を考えると、必ずしも快適な環境が整っていなくても、偉大な功績を残しています。子供たちが安心して勉強や遊びに没頭できるものであれば、過大に豪華なものである必要はないように思います。まず子供たちに質の良い教育を提供することで、将来の日本に何が一番必要かを考えてもらうことが本当の教育ではないでしょうか。知識偏重で頭でっかちな大人を世に送り出すと、ないものねだりをする評論家ばかり誕生し、本物を見抜いたり、革新的な仕組みを築こうとする真の科学者や哲学者が冷遇されることになりかねない。こうした過去の負債を清算せず、その上に塗り重ねられた社会やインフラは、子供たちに大きな負担を強いることが懸念されます。子供たちの未来は、自分自身で考え、自由に生きる社会にしたいものです。
オヤジは、ときに周りの人から無責任だとか、放任主義だなどと疎まれたこともあったようです。そんなとき、オヤジは敢えて弁解しませんでした。それはたぶん、自由と放任は別物だと考えていたからだと思います。大人は確かに子供より多くの経験をしています。ですから、子供たちの考えが明らかに間違っていると思うことは多いはずです。しかし、子供はこどもなりに葛藤し、何が本物かを見極めるために考えているはずです。それを、頭から否定し、大人の見識を振りかざして指導したのでは、子供は立つ瀬がない。人は大人で生まれてくるわけではないので、自分が子供の時はどうだったかを考えてみれば解る通り、大人の忠告がすんなり受け入れられたでしょうか。たとえ表面的には受け入れたとしても、心の底から納得していなかったはずです。その反発心こそが革新のエネルギーそのものです。自分の力で考え、悩むことが学習意欲の向上にもつながり、自分の個性に磨きをかけることになるはずです。こうすれば皆のためになるという思い込みで、土をもり上げるだけでは、明るい未来は見えてこないような気がします。