オヤジは遠慮深い人なのか?
オヤジは、人(他人)に迷惑をかける事が大嫌いな人です。しかし、矛盾しているのは、他の人に対しては、"お世話になる時は遠慮せずにお世話になりなさい。そして、その恩は一生忘れないことだ!" と言っていることです。元々「迷惑をかける事」と「お世話になること」は違うことです。つまり、迷惑をかけるというのは、相手の意思に反しあるいは相手の意思に関係なく、何らかの負担をかけることです。それに対して、お世話になるとは、相手が好意を持って負担を引き受けるものですから、元々は別のものです。しかし、相手が精神的あるいは物理的な負担を負うというという点ではほとんど同じとも考えられます。ですから、少なくともオヤジの場合は、「人(他人)に迷惑をかける事」というのは、「人の世話になること」は同じぐらい嫌いなのです。ところが、お母ちゃんは、人(他人)に迷惑をかけるが大好きというわけではありませんが、人のお世話をやくのが大好きです。世間では、こうした性格を社交的などと呼んでいるようですが、実際には矛盾だらけで、それほど大きな差はないように思います。
つい先日も、どうでもいいことで言い合っていました。それというのは、目覚し時計のことです。オヤジは、古い目覚し時計を愛用していますが、時々、スイッチ・ボタンの切り替えを忘れて、目覚しのベルが鳴りっぱなしになり、お母ちゃんに大目玉を食らいました。お母ちゃん曰く。スマホの機能を使い、目覚しを頼めばこんなことにはならないはずなのに、なぜそれを利用しないのか? とオヤジの失態を攻めまくります。しかし、オヤジは、スマホに命令すると、「承知しました」などと返事をし、いかにも自分が偉そうに見えて抵抗があるというのです。つまり、オヤジにしてみれば、この行為は、人に迷惑をかけるような気がして、なかなか踏み切れないということらしい。しかし、仕事でいざパソコンに向かうと、かなり無理な要求をし、機械をこき使っている。一方のお母ちゃんはというと、まいにち寝る前に、「明日は〇〇時に起こしてね!」などとオヤジにお願いしている。当然スマホを活用しようとはしない。これでは、どう見てもどっちもどっちとしか言いようがないように思いますが、あまり深く考えない方がよいのかもしれません。
わが家はいつもこんな感じですが、少なくとも、他人には殆ど迷惑をかけていません。でも、国会の論争となれば話は別です。コロナウイルスを巡る一連の審議で、与党である自民党が、緊急事態宣言を出せるように法改正をしたいので、野党の党首に協力を求めていました。さすがに野党の党首は与党の要請を受け入れたようですが、これがなんとも滑稽な気がしておもわず吹き出しました。国会議員は、各党の主張を堂々と発表し、国民の利益になるための議論を戦わすのが国民に対する責務ですよね。ということは、なれ合いのような妥協は、本末転倒ではないでしょうか。つまり、国民の利益になることを議論するのが仕事であるのならば、事前の調整など必要ないはずです。それなのに、敢えて事前に協力を約束するというのはどういうことでしょう。普段の審議は、単なる議論のための議論なのか、と疑いたくなります。物事を決めるには、あるていど根回しが必要なことは理解できます。しかし、国民を人質にとって落としどころを決めるというのは、民主主義の根幹にかかわることだけに、傍観すべきではないように思えてなりません。