お母ちゃんらしい言い訳
ボクが嫌いなものは、花火の大きな音、神輿のお供の太鼓と鉦の音、それに掃除機の音などです。前の二つは何とか克服できましたが、三つ目の掃除機の音だけは、何ともせわしく、追い立てられるような気分になり、生涯馴染むことができませんでした。フジテレビ朝の番組「めざましテレビのコーナー:今日のわんこ」で取り上げられるなかにも掃除機の音が苦手というワンちゃんも結構いるようです。今日登場した柴犬もそうでした。テレビを見ていたお母ちゃんは、その画面を見て、ムサシと同じだねと言いました。するとオヤジは、おもむろに、「お母ちゃんはやさしいよね!」と返しました。突然何を言い出すのかと、けげんそうな表情をしているお母ちゃんに、重ねて言いました。「ムサシが嫌がるので、めったに掃除機をかけないようにしていた。その習慣が今も続いている」という、痛烈な皮肉だったのです。なんとも回りくどい陰湿な冗談だ。いや、冗談の部分はほんの少しで、ほとんど本音に近いのではないかとさえ思えるような言い方でした。
普通の人なら耐えられないかもしれないが、これまで嫌なことを数々克服してきたお母ちゃんですから、この程度のことでめげるようなヤワではありません。普段から、洗濯は好きだが、掃除は嫌いですとはっきりと宣言しているお母ちゃんと、掃除はきらいだから散らかさないようにしているオヤジは、どう見ても似た者同士です。最も、ボクが知っている限り、どちらがきれい好きか? などということで言い争いになったことはありませんでした。かといって、どちらも汚いのが好きだというわけではありません。その証拠に、たまたまオヤジが、「もう少しここをきれいにしてもらえないか?」とお母ちゃんに言うと、「これのどこが汚いの?」と切り返されてしまう。つまり、この二人は美しいもの対する定義が全く違うのです。このことを早い段階で悟った二人は、価値観の違いを押し付け合うことのむなしさに目覚めて、感情を逆なでする行動をとらないようにしているにすぎないのです。これも均衡を保つ上では重要なポイントなのかもしれません。
妥協することと理解し合うこととは少し違います。妥協は、ある種の交換条件を満たしている均衡状態ですが、相手を理解するということは、物理的な均衡よりも感情的な面で抵抗なく許せることのような気がします。物事はすべからく妥協で成り立っていると豪語する人もいますが、ボクはそうは思いません。妥協は、お互いの利害関係の積算により均衡点を見つけることで、早期の決着を迫られている場合などには有効で便利な考え方ですから、一度その打算的均衡が崩れると、どんなに固い約束であったとしても一方的に破棄されてしまうことがあります。それに引き換え、相互理解により形成された絆は、そう簡単に断ち切れるものではありません。例えば、親子の関係などは、打算で損得を計算したのでは、どこまで行っても収支の均衡点が見つかりません。ボクとオヤジ、お母ちゃんの間の関係も同じです。こうした関係が持続されているのであれば、多少感に触ったり、冗談がきつかったりしても、笑って受け流すことができるのでしょう。