軽塵を潤す雨もいい
大自然は気まぐれで、ある地方では水がめのダムが干上がり、断水もやむなしという状況に追い込まれています。その一方で、集中豪雨にみまわれ避難勧告が出されるような水害に見舞われている地域もあったりする。ボクたちが暮らしている塩釜は、久しぶりにまとまった雨が降って、庭の木々もより一層緑が濃くなり、夏を迎える準備モードになってきました。豪雨に見舞われている方々、渇水で雨乞いをしたい気分の皆様には申しわけありませんが、大自然の恵みに依存している私たちは、その節理を信じるしかないような気がします。宇宙サイドに立って考えてみると、平等に天の恵みを施しているのでしょうが、何しろ規模が巨大なので、人間の寿命とはサイクルの桁があまりにも違い過ぎて、私たちが暮らしやすいと感じる環境は望むべくもないのかもしれません。それでも、人類はこんなに長く生き延びてきたところを見ると、案外、環境変化に適応する知恵も大自然から授かっているのかもしれません。いずれが正解なのかはわかりませんが、たぶん、宇宙サイドから観ると人間はわがままだと思っているに違いありません。
そんなとりとめのないことを思いながらも、やはり、乾いた大地には降り注ぐ雨は身も心も潤してくれるとを素直に喜んでいます。ボクもこの時期に咲くアジサイが大好きで、雨の中よくオヤジと鑑賞に出かけたものです。今日のタイトルも、中国の詩人王維が友人を安西に送り出す朝に詠んだというあの有名な「元二を送る」の冒頭の一節「渭城の朝雨 軽塵を浥す(いじょうのちょうう けいじんをうるおす)を拝借したものですが、その意味は、「渭城の朝雨は軽い土ぼこりをしっとりと濡らし、旅館の前の柳は雨に洗われて青々として、ひときわ鮮やかである」というものですが、こんな短いフレーズの中で、こんなにもしなやかでみずみずしい表現ができるものかと感動し、おやじはこの詩が好きになったという。この詩のどこがそんなにいいのか? とオヤジに聞いてみたら、かの国の人の表現は"白髪三千丈"のような誇大なものが多いなか、現代人の心にも浸みわたるところが何とも言えないのだという。それに、「今日はあいにく雨で...」などと月並みな表現をせず、雨を利用してさりげなく友人の旅立ちに花を添えた表現も見事だと言っています。
ところで、この雨模様ですが、これは梅雨入りではないというのですが、ボクたちの感覚では、この時期に雨模様が長く続けば梅雨入りしたと感じるのですが、最近は予想が難しいのか、長い雨模様から抜け出し、抜けるような青空になり始めた途端、梅雨入りしましたなどといわれることがしばしばあります。梅雨入り宣言はまだいいとして、どうやら梅雨が明けた模様というコメントには納得できません。一昔前の天気予報のように、「曇りのち晴れ、所によってにわか雨が降るでしょう」などといった、三流の占い師みたいな全天候型の予報が常識だったのとは違い、近頃は午前、午後はもとより、夜9時過などというように時間帯で予報が発表され、しかも、場所もピンポイントで示されるのが当たり前になりました。その予報がまた実に正確で、どの家庭でも頼りにしているのではないでしょうか。それなのに、「梅雨入り・空け」の予報だけは、歯切れが悪く、しかも実感とはかなりずれがあるような気がします。といっても、気象予報士さんが意地悪しているわけではないでしょうに、どうにかならないものでしょうか!