普通の人とはどんな人?
ボクとオヤジの相性がいいのは、ずぼらなところ、その割に頑固なところなど他にもたくさんあります。でも、共通点が多いことが必ずしも相性がいい決定的な条件とは限らないような気がします。ボクとオヤジの場合、相性がいいのはお互いに普通であるということが、結びつきを強めていると思っています。しかし、そもそも普通というのはどういうことなのでしょうか。「普通」という言葉と類似するものとして「平均的」とか「人並み」などがすぐに思い浮かびますが、これらの言葉を正確にとらえることは結構難しいようです。例えば、「平均的」というのは、「平均」に近いということは理解できますが、それでは平均が何であるかがわからなければ、「平均的」かどうかは特定できないことになります。今、あるテスト(100点満点)を10人受けたとして、5人が100点、後の5人が0点の場合、平均は50点ですから、平均的な人は50点に近い人のことを言うことになりますが、このケースの場合、平均的な人は存在しないことになります。
実際にはこうしたケースはまれなのかもしれませんが、一概にそう言い切ることもできません。例えば、国の統計で勤労者一人当たり年間所得を見ると、意外に高く、これが平均だとすると、自分はかなり低いと感じて落ち込んでしまう人も多いと思いますが、これは、上の算術平均ほどではないにしても、高額所得者が平均をかなり上げていることがうかがわれます。この場合は、普通の人を平均的所得者と評価するのは方向違いで、高い方(低い方)から順に並べ真ん中あたりの人を普通の人と捉えるのが妥当でしょう。つまり、普通とはかなりあいまいなものではあるが、概していえば、当たり前(人並み)の部類に入るのではないかと考えられるであろうゾーンに位置するもの(人)を指す言葉で、だからこそこれが結構便利なのです。ボクとオヤジの場合で言うと、ストライクかボールか判定が難しい場合でも、その時と場合によって、あまりこだわらずに相手の主張を受け入れる。これが寛容の精神にも通じるのではないでしょうか。
オヤジとお母ちゃんにしても、時々は火花を散らす(ように見える)場合もありますが、結局普通の人が日常的に行っている、ごく当たり前の主張の範囲内であるということに気づき、怒りが収まるので、これまでなんとかやってこられたのではないかと思うのです。こうした学習の積み重ねが、いつしか不文律になり、無駄な意地の張り合いをさける知恵になったのです。誰でも始めのうちは、自分の弱みを見透かされて、窮地に追い込まれるのではないかという自己防衛心から、虚勢を張ってみたり、いたずらに相手を威圧したりすることがありますが、それは、お互いが普通の人であることを確かめるための儀式のようなもので、本心から他人を痛めつけようとするものではないと信じたいです。もちろんこれには例外もあるでしょうが、例外は「普通」ではないので、「例外」があるから「普通」ではいられないというのは、自ら例外を普通にしてしまう恐ろしい考え方です。ボクが安心してこの家にとどまっていられるのも、家族がお互いに普通であることを共有し、日々その密度を濃いものにしていることを共感しているからにほかなりません。