蔵王町と縁の深い真田氏
真田幸村は、関ヶ原の戦いで東軍についた兄の信之と別れて西軍につき、敗れた後は、父・昌幸とともに高野山の九度山に逃れました。昌幸の死後、幸村は大阪冬の陣、夏の陣を闘いましたが、1615,年、夏の陣で討ち死にしました。幸村には子供が13人(男子4人、女子9人)いましたが、長男の大助はこのときに自害しました。まだ4歳だった次男の大八と4人の娘が奥州に逃れました。
大八や娘たちが生き残ったのは、幸村が生前、大坂の陣で敵方にあった仙台伊達氏の家臣、片倉小十郎重綱に、子供たちを託したと言われています。講談などでは、幸村の娘阿梅(おうめ)が白装束になぎなたを持って重綱の前にあらわれ、「自分は幸村の娘だ」という書状をもっていたので、重綱が「自分も男だ、わかった」と引き受けた、という物語になっていますが、本当のところは、事前に藩主の伊達政宗と幸村との間で、子供たちを頼むというやりとりがあったものと思われますが、定かではりません。
大八と阿梅らは、伊達家に密かに匿われ、白石の片倉小十郎重綱のもとで育ちます。その後阿梅は重綱の妻になり、大八は片倉守信と名乗る。1644年、守信は現在の蔵王町矢附・曲竹付近に領地を与えられました。守信の死後、息子の辰信が跡を継ぎ、その後の1712年、悲願の真田姓に戻ることができ、以後仙台真田氏として伊達家に仕えることになったのです。蔵王町では、こうした歴史を掘り起して「仙台真田物語」パンフレットを製作しました。