久米幸太郎の仇討(その2)
そこで、一度新発田藩に戻り、滝沢の知人に同行してもらい、再び洞福寺にとってかえし、黙照が休右衛門であることを確認しました。正に恐るべき執念です。滝沢休右衛門は逃走中、黙照と名乗る僧侶となり、寺院を転々として、最後に洞福寺に身を寄せたが、他国者を異常に警戒し、刀の仕込み杖を使用したり、懐刀を常に忍ばせていたと伝えられています。寺社での仇討はご法度のため、幸太郎は黙照が外出した帰路の祝田浜の五十鈴神社の麓で襲撃することにします。安政4年(1857年)10月9日、運命の日が来ました。
五十鈴神社の前を、黙照が通りかかるや、幸太郎は物陰から黙照に対し、「滝沢休右衛門」の名を呼びました。「わしのことか」と答える黙照。「拙者は久米弥五兵衛の遺児、久米幸太郎なるぞ!」と名乗りながら、姿を現しました。狼狽した黙照でしたが、旧知の藩士も姿を見せたため、言い逃れできず観念しました。82歳となった老人の姿に、幸太郎は一瞬ためらいを覚えますが、意を決して父の仇に一太刀浴びせました。そして最後にとどめを刺した。
幸太郎が本懐を遂げとき、仇討の旅に出てから30年、弥五兵衛の殺害からは41年の月日の歳月が流れました。仇討を終えた後、彼の半生は決して幸せなものではありませんでした。壮年期まで、仇討一筋だったため、世の中の実務には全く疎く、帰郷後についた奉行職も、明治維新後に始めた事業もうまく行かなかったようです。明治6年(1873年)、明治政府は法律で仇討を禁止します。明治24年(1891年)、幸太郎は数奇な生涯を終えました。奇しくも、滝沢休右衛門と同じ享年でした。何とも皮肉なものです。