久米幸太郎の仇討(その1)
石巻市祝田浜に伝わる久米幸太郎の仇討物語は、菊池寛や長谷川伸により小説化されたほか、NHKの「堂々日本史」でも紹介されています。この仇討は現在に伝わる仇討の記録で、最も壮絶なもので、仇討にまでに要した時間はなんと41年にも及びました。事の発端は文化14年(1817年)12月20日、越後国(現在の新潟県)新発田藩で、滝沢休右衛門という男が同僚の久米弥五兵衛を殺害したことに始まります。
囲碁の対局中に口論になったとも、藩金の横領が発覚するのを恐れ、口封じに殺したとも言われています。その当時、弥五兵衛の長男幸太郎は7歳、弟盛次郎は5歳でした。大黒柱を失った久米家は、藩援助で何とか糊口をしのぎました。時は流れて、文政11年(1828年)、幸太郎は18歳になり、幕府に仇討ちを願い出て免状をもらいました。幸太郎は藩から資金を受け、弟の盛次郎、弥五兵衛の弟で叔父の板倉留六郎の3人で仇討の旅に出ました。
留六郎は進んでいた縁談を断って助太刀に参加したのでした。途中、三手に分かれたり、病を患ったり、資金が尽きて僧侶に化けて托鉢をしたりと、苦難の道を極めたようです。そんなある日、幸太郎は、仙台藩領・洞福寺(現在の石巻市)という寺の黙照という僧侶が滝沢休右衛門らしい、という情報を得ました。彼はこっそり黙照を見てみましたが、滝沢の顔を知らないので確証が得られませんでした。