郷土の偉人 玉虫 左太夫(2)
玉虫は「尊王攘夷」を唱えながら密貿易で巨額の利益を挙げている薩摩・長州藩がいずれわが国の害になると指摘し、穏やかな攘夷政策のため藩主上洛の上書を提出する。さらに元治元年(1846年)3月、水戸藩の天狗党(尊王攘夷過激派)が蜂起すると情勢探索に走った。過激攘夷の長州藩が京都御所を襲う「禁門の変」が起こり、幕府は「朝敵」となった長州討伐を諸藩に命じた。玉虫は「長州征伐により内乱が起きれば、国内が分裂し外圧によって日本は滅亡する。仙台藩は寛大な処置を幕府に建白し、日本の存亡を何よりも重視すべき」と藩に提言した。慶応2年(1866年)、藩校養賢堂の指南統取に抜擢され、ここで玉虫の教訓を受けた一人に千葉卓三郎(五日市憲法の創案者)がいた。藩主の伊達慶邦の侍講も勤め、国老但木土佐の信認を受ける。9月、京の情勢が不穏となると直ちに江戸から京・大阪、さらに薩摩藩内を探索し、慶邦へ国政の在り方を提言した。
慶応3年(1867年)10月、将軍徳川慶喜が朝廷へ「大政奉還」したことを玉虫は疑問視して、緩やかな改革を主張した。案の定、政権返還後の12月、薩摩・長州による軍事クーデターが勃発し、「王政復古」を掲げる藩閥の新政権ができた。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで勝った薩長軍は錦旗をようする官軍となり、仙台藩に会津征討の命令を下した。しかし慶邦は和平・融和の信念を持ち、武力によらない平和的な解決策を模索する。玉虫は会津征討には大義がないこと、「朝敵」の烙印は朝廷の真意ではなく、その背後にある薩長両藩の画策であるとして公然と朝命に異を唱えた。玉虫と、非戦のため会津説得を主張する近習若生文十郎を、藩は会津救済の使節として米沢、越後、会津に派遣、会津藩主松平容保に謁見し非戦のため恭順を進めた。しかしその努力は、奥州鎮撫総督府の下参謀世良修蔵(長州)に嘲笑され踏みにじられた。
あくまでも戦争を強行する政府軍に対して、二人は藩の方針に従い同盟の成立に奔走し、基本戦略を23条にまとめた「作戦計画書」を策定。3日奥羽越31藩は、公論衆議などと奥羽の大義を明らかにして「奥羽越列藩同盟」を結成した。同時に玉虫と若生は軍務局応接統取として、下級武士ながら新政府との折衝、同盟諸藩重臣との作戦、軍事の手配など実務を仕切っており、その努力・心労は並大抵のことではなかった。列藩同盟は緒戦の白河戦争、越後・長岡戦争で数ヵ月も互角の攻防を展開したが、次第に秋田・新発田・三春・相馬中村藩が離脱し仙台藩の戦線は拡大した。7月に入ると同盟軍は各地で撃破されて劣勢となり、藩内抗争が一層激しくなってきた。「左太夫ヲ苦慮シ自殺セントシテ自ら其の腹部二傷リ、以テ当時ノ難事ヲ知ル二余リアリ」(『若生生文十郎君小伝』)。内部抗争もあって応接統取の苦悩は大きく、玉虫は戦線劣勢の責任を感じて割腹し、その場に居合わせた者によって制止された。
9月藩論が一転し降伏と決すると、玉虫は蝦夷地での再挙を期して仙台を脱出。だが気仙沼で榎本武揚艦隊との合流ならず、志津川で捕縛された。6ヶ月余獄中にあって刑は軽微と思われたが、藩の内紛「仙台騒擾」によって、明治2年(1869年)4月9日、家跡没収のうえ切腹を命じられその生涯を終えた。行年47歳。墓所は若林区の保春院。このとき玉虫と共に若生生文十郎、安田竹之助など有為の人材多数が死刑に処せられた。実は仙台藩降伏後、明治政府は玉虫を外務大臣に任命すべく使いを贈ったが、使者が仙台に着いた時は後の祭りであった。福沢諭吉は文部大臣に推挙した玉虫の死に衝撃を受け、『福翁自伝』で仙台藩のにわか勤王派を罵倒し、その死を惜しんだ。玉虫家は墓を建てることも許されず20年間も断絶してきた。明治22年(1889年)4月、明治憲法公布の恩赦でようやく家名復興が許され、命日に教え子の横尾東作、富田鉄之助らによって保春院に「玉虫拙斎之墓」が建立される。仙台市は大正7年(1918年)10月「玉虫左太夫先生五十年祭」を催した。玉虫左太夫は近代日本への、真の先駆者であった。