郷土の偉人 玉虫 左太夫(1)
「苦味ナレドモ口ヲ湿スル」、初めてビールを飲んだ日本人・玉虫左太夫。いち早く欧米の文化を見聞きし、日本を公論による民主・共和制国家にと志した。薩摩・長州藩の勤王攘夷に疑問を持ち、会津救済に奔走し、戦争を強行する新政府と対立、遂に奥州越列藩同盟結成に尽力する。その生き方は「西の坂本(龍馬)東の玉虫」とも言われる。玉虫家は武田家、徳川家と仕え、子の一人が伊達政宗に取り立てられ仙台藩士となる。玉虫誼茂は文政6年(1823年)、仙台藩鷹匠組頭玉虫伸成の七男として北五番町で生まれ、幼名勇八、後に左太夫と改め、拙齋と号した。左太夫が2歳のとき父を失い兄勇蔵に養われる。折からの大飢饉もあって困窮の中で育った。幼少から学問に優れ、藩校養賢堂で蘭学者大槻盤渓に学ぶ。優れた才を見込まれ13歳のとき藩士荒井東吾の婿養子に迎えられる。
長女さよが生まれ、その3年後に妻が病没した。時事に感じて養家を辞し、玉虫姓に戻った後、意を決して24歳で江戸へ出奔した。脱藩して江戸へ出た玉虫は、商家の下男や按摩などをして勉学の道を探した。ようやく幕府の学問所を仕切っている大学頭・林復斎の下僕となった。そこで天下の秀才が集う私塾・昌平黌に入ると、塾長の代わりに講義をするまでになる。数年後林家を辞し、仙台藩の学問所・順造館に移り、江戸で学ぶ横尾東作(硫黄島探検・日本領に)、富田鉄之助(日本銀行総裁)、木村信郷(参謀局地図課長)、高橋是清(首相)らを監督し影響を与えた。安政4年(1857年)、函館奉行堀利熈に随行し、5ヵ月間にわたって蝦夷地と樺太を踏査。地理や集落・警衛などを「入北記」9巻に記録し、その観察が抜群なことから幕府に才能を認められる。そして万延元年(1860年)1月、幕府の日米修好通商条約批准使節団正使新見正興の従者として、米軍艦ポーハタン号でワシントンへ向かった。
随伴の咸臨丸(艦長勝海州)には福沢諭吉が乗船し、国内最秀才というべき二人が日本の将来のため派遣されたことになる。この間、使節団を派遣した井伊直弼が3月桜田門外の変で斃れ、アメリカでは翌年に奴隷解放の南北戦争がおきるという時代であった。玉虫は選挙で大統領を決める共和政治や産業革命による工業生産力、経済力など進んだ文化に驚き、反対にアメリカや中国の植民地支配に危うさを感じる。見聞したものを一日も欠かさず日記に留め、帰国後『航米日禄』7巻にまとめ幕府と藩主慶邦に献上し、日本の将来と近代化について論じた。文久3年(1863年)7月大藩士に召出され、雄藩の動向をつかむため、江戸から京阪、長州、薩摩へと探索する。そこで得た政情と社会情勢を克明に記した『遊武記』(江戸)、『薩州記事』、『長州記事』などを藩に報告。さらに『官武通記』13巻をまとめ、これらは今も幕末維新史上の重要資料となっている。