繰り返し襲ってくる自然の猛威
11年前にあの東日本大震災に見舞われたとき、これは千年に一度の震災だと言われたことを思い出します。その時は、千年に一度であれば仕方がない。「少なくとも私たちが生きている時代には二度と起こる心配ないのだから」と、自分を慰め泣きながらガレキの山に挑んだ人も多かったのではないでしょうか。しかし、現実はそう甘くはなかったようです。大震災とはいえないまでも、局地的には甚大な被害を及ぼすような自然災害が引っ切り無しに襲いかかり、忘れた頃にやって来るなどという悠長なことを言ってはいられない状況になってきました。地震が起こる頻度の多さ、今や年中行事のように発生する台風、その合間を縫うように発生する火山噴火。こうした災害による被害は、経済力の委縮、強いては陰惨な犯罪の遠因になっていないとは言えないような気がします。もちろん、自然災害は今に始まったことではないので、被害の多さが愚行を後押ししているというのは飛躍した考え方でしょうが、まったく無関係であるとも言い切れないような気がします。豊かな社会を支えている基盤は何といっても経済ですし、この基盤を作り上げ充実させていくための原動力が人間の英知と希望であると考えれば、嘆いているだけでは何も変わりません。
目の前の利害や宗教感の違い、個々の人々の個性などが入り混じって成り立っている地球は、一つの物差しで正義を推し量る事は不可能に近いかもしれません。しかし、いくつかの共通点はあります。それはオリンピックなどに代表されるスポーツでは、統一したルールに賛同しています。また、今日叫ばれている地球温暖化の防止、SDGsといった考え方は、あらよる民族間の葛藤を超えて、地球上の人類が共存していくために必要不可欠であるという認識に辿りついた証であり、遅ればせながら歓迎したいところです。また、絶え間なく起こる自然災害の脅威に対しても、各国が災害時の経験を共有し合い減災に取り組んでいます。こうした取り組みは意図している効果よりも、人としての原点を理解し合うきっかけとなり、少しずつ共通認識の積み上げに発展していくことにつながっていくことが期待されます。たまには、地球とという"大家さん"の身になって考えるいい機会かもしれないとは思いませんか。少なくともボクとオヤジとお母ちゃんはそう考えいます。
大自然から間借りしている、いや無断で住み着いて居住権を主張している動物の一種に過ぎないヒトではありますが、いい加減、地球は何について怒っているのか、どういう時に喜びを感じるのかを、耳を傾けるぐらいの謙虚さを持ってもよさそうな気がします。こうした考えは、少なからず突飛で一般的には受け入れがたい絵空自かもしれません。しかし、一帯誰と誰が話し合い、国境線を引いたのでしょうか。先に睨みを効かせた国(集団)が、強く主張するので、他の国(集団)が引き下がり、今日に至っているようにも見えますが、未だに戦争が尽きないところを見ると、納得がいかない人々が少なからず存在している以上、あながち根拠のない話ではないかもしれません。しかしながら、今それを言ったところで、何がどう変わるわけでもないので、これは、ひとまずオヤジの戯言として聞き流していただきたいと思いますが、ここで申し上げたいのは、人が生きるために不可欠な血液とも言うべき経済がこれ以上疲弊すると、あっという間に原点に回帰してしまい、古典的な取っ組み合いに発展してしまうということです。人類の英知が試されているのでは?