日本は本当に人に優しい国なのか?
日本人は神代の昔から、お祭りが大好きで、そのメインイベントである御神輿を担いで町内を練り歩くのが平和の象徴的行事でした。しかし、現代は民主主義、資本主義の時代。ある人は、自分の才覚で勝ち取った収益は、自分の生活を豊かにするために使うことは何ら不思議ではないと考える。他方、一生懸命働いているのに生活が苦しいと嘆き、適正な再配分を主張する。これらは、どちらも正解ですが、どちらも不正解です。前者が正解である理由は、自分が高額の所得を得るために多額の投資をし、人一倍努力をしたのだから、他人にとやかく言われる筋合いはないということかもしれません。これは資本主義の原則であるという意味では、その通りでしょう。そして、後者の意見が正解であるという理由は、自分は真面目に働いているのに、人並みの生活もままならないというのは、「最小限度の生活(文化的生活)」を保障している憲法に違反する、という意味では正解といえるでしょう。しかし、本当に自分の才覚のみで高額の所得を得ているのですか? 本当に自分のベストを尽くして働いた結果だと自信を持って評価できますか?
どちら側の人も、自分の主張に多少なりとも疑問を持っているからこそ、何とか折り合いをつけて世の中を回しているのではないでしょうか。もちろん、双方が歩み寄りもっと豊かな国を作る努力は必要だと思いますし、その余地もかなりあるかもしれません。事実、政治家の先生方に言わせれば、日々そうした努力を積み重ねてきた、とおっしゃるかもしれません。ただ、その適正な配分方法に問題があり、場当り的であったという反省はないのでしょうか。今振り返ってみると、予算配分方法一つとってみても、弱いところが露呈すると、そこを補強し、別のところに不具合が生ずれば、緊急避難的な補強に走る。これではまるで、「皿回し芸」のようで、これではいつか疲れてしまうでしょう。そのツケがたまって、身動きができなくなってきたのが今の姿ではないでしょうか。マジックにもネタがあるように、予算の配分には、資産や企業が稼いだ付加価値が十分でないと、先細りになるのは当然の帰結といえるでしょう。一旦歯車が逆回転し始めると加速度が付くため、借金でほころびをつくろいながら、付加価値生産性を高めるのは至難な業です。
日本がこれまで発展してきたのは、「我慢」→「教育の充実」→「勤勉・研究」→「成果(付加価値)」→「配分」というサイクルを構築し、その目標に向かって努力してきたからではないでしょうか。どんな時代でも、またどんな社会でも、「不満」はつきものです。ただ、国全体が豊かになれは、日本人本来のやさしさが甦ると期待されます。そうすれば、配分を巡る過激な主張も多少は大様になるはずです。政治は、国民の不満に対してダイレクトに応えるだけが仕事ではないような気がします。ここはひとつ、「無い袖は降られない」と言ことを国民に対して正直にかつ誠実に打ち明け、これを打開するための施策を提案し、その実現に向けてのロードマップを示し、協力を求めてはいかがでしょうか。来るべき参議院議員選挙では、各党派ともにこれまでの「成果」を自我自賛するのではなく、日本国の行く末をどのように考えるかをビジョンとして示し、それをどのような戦略を駆使して達成しようとしているのかを国民に語りかけていただきたいものです。国民は多少の例外はあるものの、概していえば優しい人ばかりだとボクは信じています。