郷土の偉人(特別編)-渋沢栄一(2)
明治11年(1878年)12月、宮城県で初めてとなる銀行「第七十七国立銀行」が業務を開始した。その創立には渋沢が深く関与している。明治維新で廃藩後、土佐に支給された金禄公債を運用するため、宮城県の士族会議は銀行設立を決議。初代頭取となる元士族氏家厚時は、第一国立銀行頭取の渋沢栄一に銀行設立に関して周到懇切な教示を得た。渋沢は経営上の指導と、不足している多額の設立資金を自ら引き受け、さらに第一銀行から優れた人材を送り込んだ。その一人が元津軽藩士の遠藤敬止である。遠藤は設立業務を援けて経営全般の指導に当たり、二代目頭取に推された。渋沢は公金取り扱い事務を第一銀行仙台支店から移譲するなど七十七銀行の誕生に惜しみない援助をし、設立後も会議や講演などで幾度も同行を訪れ物心両面から支援した。後に日露戦争後の恐慌で苦しんでいた七十七銀行に対し、経営のタガを引き締めるよう強く助言。以来、同行は堅実経営に徹し、その伝統は今に引き継がれている。
伊達宗城の厚遇を得た渋沢は、宗城の次男宗敦が養子になった旧仙台藩に強い関心と愛着を持ち、戊辰戦争で幕府に味方した奥羽に同情した。七十七銀行への支援をおしまなかったのも、西側と比べ経済格差のついた奥羽開発の重要性を痛感したからである。それを象徴するのが明治27年(1894年)、東京株式取引所(現東京証券取引所)が増大する出来高に対応するため、株式売買の清算「場勘業務」を、数ある銀行の中から七十七銀行に業務を委託したことだ。これには渋沢の強い推薦があったことは言うまでもない。東京支店から株式取引所内に行員を派遣し、煩雑な出納業務の一切を取り扱った。日露戦争や大恐慌、関東大震災後の処置などのたびに巨額の金が動いたが、七十七銀行は出納業務を敏速適切に処理して、取引所の機能がいつも完全に遂行されるよう協力。その信用は、東京における大銀行と肩を並べるに至った。戦後になって都市銀行も加わったが、地方銀行としては現在唯一同行のみ資金決済銀行として名を連ねている。
明治11年、明治政府初の大プロジェクトである「野蒜築港」事業に渋沢は財界人としていち早く進出を決め、東京から青森までの鉄道計画や、大正の初めに「東北振興会」の会長に就くなど、遅れていた東北の発展を民間主導で推し進める。昭和3年(1929年)には、仙台商業会議所が主催した東北振興に力を注ぎこんだ。実業の第一線から退いてからは民間外交に力を注ぎ、アメリカ、中国、フランスなどの親善交流に努め注目される。さらに日本国際児童親善会での国際平和への貢献が評価され、大正15年(19216年)とその翌年、二度もノーベル平和賞候補になった。だが日本の軍備拡張が世界から非難され、日本人初のノーベル賞受賞は見送られたのである。昭和6年(1931年)11月11日、91歳の生涯を閉じ、谷中霊園の慶喜の墓所に近い渋沢家墓所に眠る。渋沢は旧主の事績を正確に伝えたいと「徳川慶喜公傳」終生の事業として編纂に打ち込んでいた。「儂がもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井(三井財閥)や岩崎(三菱財閥)にも負けなかったろうよ」と息子たちに語ったという。「私利を追わず公益を図る」経営姿勢を生涯貫き通した、スケールのどでかい人物であった。