郷土の偉人(特別編)-渋沢栄一(1)
NHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公・渋沢栄一、3年後には新一万円札の顔になる。日本の紙幣に実業人が登場するのは初めて。明治・大正の経済界で数々の新分野を切り開き、日本の金融と国内産業の近代化の基礎を築いた渋沢は、偉大なベンチャーキャピタルだ。財政の松方正義、理財の福沢諭吉、金融の渋沢栄一と称される。中でも七十七銀行の創業に尽力するなど、宮城県・東北の経済発展と関係は深い。明治維新という大激変の時代に、攘夷倒幕、幕臣、さらに新政府の高官と立場を逆転し続けた渋沢栄一には、「平岡円四郎」「伊達宗城」という運命を変える二人との出会いがあった。栄一は天保11年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)の富農の長男に生まれた。家業の養蚕や貸金業を手伝い、父から「論語と算盤」を叩き込まれる。22歳の時江戸に出て、お玉が池の千葉道場に入門。過激な攘夷計画が漏れて役人に追われ京都に逃れた。この窮地を救ってくれたのが江戸遊学中に交友した一橋慶喜の側近平岡円四郎だ。
渋沢を人橋家にかくまった上に、百姓身分から名家の家臣に取り立てた。新選組の近藤勇や土方歳三と接触したのはこの頃。やがて一橋家の家臣団編成と財政再建で頭角を現し慶喜に認められる。慶喜が徳川家を相続して十五代将軍に就くと、渋沢を幕臣に引き上げて慶応3年(1867年)パリ万国博覧会特使である弟徳川昭武の随行を命じた。渋沢はこの洋行で資本主義経済のメカニズムを学び、日本近代化には民間の側から創らねばとの思いを深める。平岡との出会いが過激攘夷派から、幕臣、渡欧へと運命を大きく変えたのだ。帰国したのは戊辰戦争の後だった。渋沢は慶喜の下で静岡藩の財政立て直しに専念。新政府の大蔵郷郷(大臣)に就いた元宇和島藩主伊達宗城が、静岡の慶喜へ挨拶に訪れた。そこでヨーロッパ式事業を展開している渋沢を知った宗城は、大蔵大輔(次官)大隈重信に、新政府にとって最も必要な人材であると推挙した。
大隈の説得で明治2年(1869年)、渋沢は大蔵省の要職に就いて「国立銀行条例(条例に基づく民間銀行)」等の金融政策の立案など目覚ましい活躍をする。だが大久保利通ら薩摩閥としばしば衝突し、渋沢は明治6年(1873年)辞職した。3年半の在官であったが、租税制度と貨幣制度の改正、鉄道敷設、会計法など重要施策を立案・推進し、「経済こそ国の根本」という信念が固まる。幕臣であった渋沢が薩長政権の最重要部門に就き、さらに経済界で成功したのは渋沢の抜きん出た実力と共に、大蔵省で伊達宗城の知遇を得たことであった。「民を興す」志に燃える渋沢は、その年日本初の銀行「第一国立銀行」を設立。その後東京ガスなど500の企業を育成し、日本近代産業のあらゆる分野に及んだ。さらに東京商工会議所や東京証券取引所を設立、日本赤十字社、一橋大学などおよそ600の社会事業に尽くした。これは「官尊民卑の打破」と、「事業と道徳とは一致」していなければならないという思いから生まれたものだ。