メダルの重み
開催が危ぶまれていたオリンピック東京大会も、いよいよ始まったかと思ったらもう後半戦に突入しています。そろそろメダルの獲得数が気になる頃ですが、出場選手たちの心の内はどのようなものでしょう。昔は「運も実力のうち」などといって、運に恵まれた選手を讃えたものですが、昨今は、「実力も運のうち」という逆説を唱える人が出てきたかと思うと、なるほどそうだと称賛する人も多くなっている。わが家のオヤジはこの説をどう思っているのか聞いてみたところ、まったく同感だという。その理由は以下のようなものです。「『運』というものは、自分ではコントロールできないものであると考えれば、すべての人が『運』の恩恵を被る機会は平等に与えられているはずなので、たまたまその運がオリンピックなどの大舞台で特定の選手やチームにもたらされたとしても、その運をどのように計測し、それを差し引いて勝敗を決めるのかは極めて困難である。そのため、「たまたま運に恵まれたため」それが勝因としてカウントすることは合理的ではないという考え方から、運に恵まれていたための勝利であるから、メダルには価しないなどとは言わないことにしている。」これが通説である。
もっとも、この説明には反論もあるだろう。つまり、「『運』というものは、その人が一所懸命精進したことに対して神様が与えてくれたご褒美のようなもので、このボーナスポイントが与えられるということは、実力を磨いてきたという証ともいえるはずなので、これを『実力』と評価するのは当然である。すなわち、運が良かったから勝てたのは実力があったからだと考えても何ら問題ない。」というものだ。これは、あくまでもオヤジの主観ですが、この説は些か神がかっていて論理的根拠が希薄である。しかし、日本人にはこの説が一番受け入れやすいような気がするというのです。それならなぜこの説を支持しなのかと聞いてみると、「もしも、努力した人に与えられるご褒美なら、努力をした人(すべてのアスリート)にご褒美を与えるのが神様の役目であるような気がするというのです。いずれにしても、「運も実力のうち」というのは、元来勝者の論理であり、謙虚さにかけるという響きがあります。現に、今のアスリートたちは、『運』というのは監督やコーチ、家族や友人、そして多くのサポーターの力と考えている人がほとんどのように思われます。
それに引きかえ、「実力も運のうち」というのは、いかにもしっくりとくる。アスリートに限らず、人は「運命の人」「あの人に会わなければ」といった言葉をよく口にする。つまり、すべての成功者は、自分が尊敬できる指導者や同僚に出会ったことが、自分の運命を決めたと感じているようだ。つまり、その心の内を要約すれば、「ある人に出会ったこと」が運命で、その影響で実力をつけることができた、というわけでしょう。このように考えれば、「実力の中に運命も含まれている」ということになるので納得できる。少なくともこの方が「努力は必ず報われる」というフレーズもほとんど違和感がない。一方、この考え方にも納得がいかない面も多少あります。それは、勝者に与えられるメダルの色です。オヤジが言うには、もしも努力が報われるというのであれば、メダルを「金メダル」「銀メダル」「銅メダル」とするのでは、あまりに落差が大きすぎると感じることがある。金メダルに近い銀メダルや銀メダルに近い銅メダルと評価できるような場面も多いように思うからです。でも、アスリートたちはその評価を謙虚に受け止めているので、大きなお世話なのかもしれませんね!