皿は手招きしても動かないのですが...
マジックならともかくテーブルの上にある皿を手招きしても、招かれた皿は自主的に行動して招いている人に近寄ることはあり得ないことです。そんなことは百年もまえから承知しているはずのお母ちゃんが、最近よくこのポーズを取るようになりました。少なくとも、ボクも一緒に食卓を囲んでいたときは、お母ちゃんのこうした姿を見ることはありませんでした。これには当然理由があり、年月の経過を考えれば当たり前のことかもしれません。オヤジは自分だけが年を取ったように勘違いしているようですが、それは大きな時代錯誤です。お母ちゃんにして見れば、食事がすんで後片づけをするとき、使い終わった食器をキッチンに戻すとき、なるべく効率的にしたいと思うのは、ごく自然なことです。オヤジもそれはわかっているつもりなのでしょうが、家のなかでは時間が止まっているように感じているため、お母ちゃんが昔からやっていることだから、そんなに億劫がらなくてもいいのでは? と、つい考えてしまうのかもしれません。お母ちゃんにしてみれば、お互いに年を取ったのだから、少しぐらい手伝っても、バチはあたらないと思っているのかもしれません。
そこで考えたのが、「使用ずみの食器を手招きする」という、いかにも皮肉っぽい報復策なのでしょう。お母ちゃんの言い分は、「食べ終わったら、食器を私の前に移動してください。そうすれば、運びやすいようにまとめられるので、手間がかからないから」と、いうわけです。一方、オヤジの言い分は、「そうしようとは思っているのだが、お母ちゃんがまだ食べ終わっていないので、その目の前に使い終わった食器を集合させるのは、ちょっとはばかる」と、いうのです。確かに、オヤジの言い分にも一理ある。食事は、その人のペースでじっくり味わうべきもので、後片付けのためとはいえ、決してせかされるべきものではない。だから、お母ちゃんが食べ終わるのを待って、後片付けの用意をしようと思っているうちに、ついテレビの画面に目が行き、食器の撤収が遅れてしまう。そのときはすでにお母ちゃんの「皿の手招き」がはじまっているというわけだ。お母ちゃんの少しゆがんだ合理主義と、オヤジの舌足らずの思いやりが、ほんの一瞬とは言え、年中行事のように繰り返されるのは、ボクにとっては何とも切ない。
しかし、事態は決して深刻ではなく、むしろ、勝ち負けのないゼロサムゲームを楽しんでいるかのようです。つまり、平穏な暮らしに感謝し、これを守り抜くためのルーティーンのようなものなのかもしれません。その証拠に、このことについて徹底的に議論する気などさらさらないようです。でも、勝負は明らかにオヤジの負けです。それは、多部未華子のような目つきで睨み、夏木マリのような手招きをされれば、オヤジの手と皿が同時に動き始めるという「自動装置」が出来上がっているからです。「将を射んとする者はまず馬を射よ」というのは昔のこと。「将を動かそうとするには、まず、将を睨め! そうすれば馬は必ず動く」。これがお母ちゃんの「戦わずして勝つ」秘策であるようです。元々お母ちゃんとオヤジは、性格が正反対に近い。例えば、お母ちゃんは「のんびりや」「おおらか」「外向的」「失敗に対して寛容」「誓いは立てない(破るのが怖いから)」などですが、オヤジはというと「せっかち」「合理性追及」「内向的」「自分の失敗を異常に悔やむ」「誓いはめったに立てないが、一度決めたらやり通す」といった性格です。それが、50年もたつと、どうしてこんなに似たもの夫婦になるのでしょうか? 不思議ですねぇ!