文人たちの心を癒した宿-秋保温泉郷
仙台市出身の詩人として名高い土井晩翠。晩翠が作詞を手がけ、滝廉太郎が作曲した『荒城の月』は、長く愛されてきた唱歌として広く知られている。現在の木町通に生まれ育った晩翠は、和歌や徘徊をたしなむ父の影響で子どもの頃から文学に親しみながら育ったと伝わっている。やがて東京帝国大学英文科に入学し、卒業後は東京や仙台で教師として勤めるかたわら、詩作のほかにも英文詩の翻訳を行うなど、英文学者としても活躍した。しかし、太平洋戦争末期の仙台空襲で住まいを焼失してしまうという憂き目にあい、戦後は数多くの校歌に携わることになった。
処女詩集『天地有情』が高く評価されたことで、詩壇では島崎藤村とならんで『籐晩時代』と呼ばれるまでになった。空襲で住まいと約3万冊もの大切な蔵書を焼失した晩翠が、疎開した先が秋保温泉だった。現在よりもさらに豊かだったであろう秋保の自然景観のなかでも、特に好んだとされているのが、名勝・磊々峡の雄々しい渓谷美だった。次のような詩が、覗橋中央のテーブル歌碑に刻まれている。「見下ろせば藍をたたうる深き淵鎮魂台風掠め行く 真二つに天斧巌をつんざきぬ 三万年前のあけぼの」。両岸に断崖絶壁がそそり立ち、その間を流れる名取川。覗橋付近の約1㎞に渡って奇岩が連なり、時に紺碧の水をたたえた静かな淵、ときに荒々しい急流という対照的ともいえる景色に、目も心も奪われたにちがいない。
多くのを失った晩翠の傷心をいやしてくれことだろう。1947年に市町村制施行によって、町内にあった秋保国民学校が秋保小学校に改名。同年制定された校歌は、土井晩翠が作詞したものだ。同校から独立した湯元小学校と馬場小学校も、秋保小学校時代の歴史と伝統を共有し、地域の人々の思いや願いを引き継ぐ意味で、同じ校歌を歌い継いでいる。秋保温泉の開湯は、今から1500年前までさかのぼる。藩政時代には伊達家の御殿湯として整備されるようになり、元禄年間には武家だけでなく庶民も秋保温泉に入るようになっていたとされる。少し足をのばせば、秋保大滝などの名勝が見られる。近年は秋保周辺エリアに地場の野菜や名産品を扱う商業施設が相次いでオープンし、温泉行き帰りの際の立ち寄りスポットとして人気を集めている。