文人たちの心を癒した宿-青根温泉 不忘閣
第一歌集「みだれ髪」で、いちやく歌壇の寵児となった与謝野晶子は、夫・与謝野鉄幹(寛)とともに全国を旅してまわった。生涯で150回以上も旅をし、訪れた宿の数も100ヵ所を超えるといわれるほどだ。六男六女の子沢山で、短歌の同人誌を作る費用を捻出するための旅でもあり、夫妻は旅かせぎと呼んでいた。全国を巡って短歌を詠み、講演して色紙や短冊に揮毫し、資金を稼いだという。宮城蔵王の内ふところ、青根温泉の湯元 不忘閣の庭にも2人の歌碑が建つ。青根温泉は藩政時代の伊達家御殿湯で、開湯は1528年まで遡る。伊達家より湯別当の名を受け、古来から頭に効く湯として有名だったため、ストレスや心気に悩む文人達からも愛されてきた。
歴代藩主が入浴した当時そのままの石組みの風呂も残り、男女別大浴場・御殿湯として今も楽しめる。本館も離れも部屋は伝統的な木造建築で造られ、太い柱や壁や柱など歴史と伝統を感じさせる宿だ。政宗の間には5代藩主・吉村以降の入浴日記や代々の家宝も展示されている(見学無料・宿泊不可)。「青根の湯の 湯守の館の白き蒼さて蔵王山 かなたは出羽」与謝野晶子。後年、晶子は一人旅に出る。越後、佐渡、陸前とまわり、この際も青根に宿泊している。当時の心境や思いを、最後となる歌集『心の遠景』に次のように書き記す。「雄大な蔵王連峰に大きく抱かれてしんしんと眠る青根温泉の晩秋のひそけさのなかに、わたしの傷つき果てた心もいつしか癒え去り行く思いでありました」。
青根に投宿しながら、夫・鉄幹が創刊した『明星』のこと、一度廃刊となって復活し、再度廃刊となったことなど、自身の身の上や激動の人生を振り返っている。晶子が後日送ってくれた不忘閣の門前で撮った記念写真、同地で詠んだ短歌の色紙や宿帳も展示されている。不忘閣は、山本周五郎が『樅木は残った』を書き上げた宿としても有名で、部屋の窓から見える中庭の木が、タイトルのヒントになったとされる。また、芥川龍之介や川端康成などもこの宿の歴史を飾っている。こうしてみてくると、東京の文壇からずいぶんと訪れていたことに驚かされる。伊達家の御殿湯は、堂々たる門横に記されているとおりまさに「文人達の湯」である。