郷土の偉人 伊澤平左衛門-その2
しかし、3万2千円(現在の2億円強)もの赤字になり、伊澤会頭は「責任者は私ですから、どうか私一人に負担させてください」と公約通り全額支払った。いま勝山公園にある平左衛門の鏡像は、氏の侠気に感激した議員一同から贈られたものだ。その時平左衛門は一流の彫刻家より、本県で若く将来性のある小室達君にと推した。平左衛門は酒造の品質を追求するだけでなく、旧制二高移転に際し雨宮敷地を提供、さらに自宅の庭園1124坪をこどもたちのために寄付し仙台市初の児童公園(勝山公園)とした。さらに仙山線実現のために東照宮周辺の土地を提供、東北学院への援助、伊達家菩提寺の瑞鳳寺に本尊の釈迦三尊像を毛越寺より購入して寄贈、吉田高等女学校(現聖和学園)の設立、金華山神社に観音堂の建立など多くの慈善を施している。
格別目を引くのは、仙台経済界のため行った金融界再編への取り組みだ。大正12年七十七銀行の頭取に就任した平左衛門は、昭和2年(1927年)の金融恐慌で経営不振に陥った宮城商業銀行救済のため、仙台興業銀行と共に七十七銀行に合併して将来に備えた。昭和7年(1932年)満州事変と世界大恐慌によって金融恐慌が全国に広がり、多くの銀行が倒産した。平左衛門は数年前にすべての公職を退いていたが、いち早く五城銀行の不良債権を私財を投げうって肩代わり救済した。その上で県内3大銀行の七十七銀行、五城銀行、東北実業銀行による3行合併を実現し、現在の七十七銀行を設立した。仮にこの大合併がなければ、大不況による巨額の不良債権で体力が弱っていた3行は、経営破綻の恐れもあったと言われる。平左衛門は戦争と恐慌の相次ぐ混乱期にも家業を隆盛ににし、生涯を仙台発展に捧げた。
東北の重鎮となっても温厚・篤実な人柄で接し多くの人に親しまれながら昭和9(1934年)6月、73歳の生涯を閉じた。墓所は若林区新寺林香院。戒名は本性院亮庵無盡竺大居士。関東大震災、昭和金融恐慌、昭和三陸津波、世界大恐慌と相次ぐ苦難の時代にあって、金融界の再編成を果敢に実現して宮城県経済界の安定に貢献するなど、郷土のために先んじて取り組んできた人物であった。恐慌で福島、岩手、青森県ではパニックが起きたのに対し、当県は何の騒ぎもなく銀行が通常に営業したのは、経営者としての先見力と優れたリーダへ―シップ、人望があったからと思える。平左衛門は若くして仏教に帰依し、念願のインド仏跡巡礼を叶えた。仏教徒として「富者布施」を実践し、郷土のため大きな足跡を残している。