どっちがほんと
歌の文句に「友達の友達はみな友達だ」というのがあります。このフレーズは、確かに耳障りは良いのですが、よく考えてみるまでもなく、全ての人が全部友達ということになるということを意味しています。もちろん、「人類みな友達」とい言葉もありますから、理想ではあるのかもしれませんが、実現はなかなか難しい。最も、これらの言い回しは、友達だからどんなことでも同じように考え、何かを決めるときには全ての人の意見が一致し、満場一致でひとつの案が採択されるということを言っているわけでなく、「友達だから相手の立場や意見を尊重し、その上で賛否を問うべきだ」ということと矛盾していないのでしょう。しかし、言葉というものは、コミュニケーションのツールとしては最大のものですが、それだけに使い方を間違えたり、誇張して使うことで、間違ったメッセージを発することになりかねないこともあります。もちろん、人間の知恵や思考能力は言語の記号的機能の範囲を遥かに超えているため、心に馴染むものもあれば、「そういうことを言っているのではないのに」という忸怩(じくじ)たる思いにかられることもあるかもしれません。
人間の知恵は、その隙間を埋めるために、ときには遊び感覚も手伝って、相反する鋭い名言(迷言)を生み出すこともあります。例えば、「友達の友達はみな友達ではない!」などというのはどうでしょう。ある政党のドンといわれるM氏とS氏は戦略的互恵関係でがっちり結ばれている。そして、M氏はまた大都市のトップK氏との相性がいい。ところがS氏とK氏は犬猿の仲だという。もっとも、「嘘をつくのがうまい人」「嘘がばれても、白を切り通す人」でなければ政治家は務まらないという話もあるので、MSKの間柄も本当のところはわからないが、これまでの三人の言動から察するに、この法則はぴったり当てはまる。人類みな友達なのか、それとも、友達の友達はみな友達ではないのかなどというのは不毛の議論なのかもしれません。しかし、こういう名言(迷言)を世に送り出す知恵者がいるから世の中は面白いのです。ボクはここで挙げた三氏に恨みなど在るわけもありません。それどころか、政界をもっと活性化させてもらうために、実力を発揮してもらいたいと思い、リーダーたちにささやかなエールを贈っているつもりで例に引きました。
ついでというのも唐突ですが、「いい加減にしろ!」といのも本当にいい加減ないいまわしですね。コント風に言うと、会社で課長が部下に対して、「何だ! この企画書は、やり直せ!」と言いました。すると部下曰く。「課長はこの前、お前へ、いい加減にしろ! と言いましたよね。だからいい加減やったつもりです」。そこに部長が登場して課長に向かい、「君、部下にそんな教育をしていたのかね?」と、カンカン。今度はそこへ社長がでてきて、「まぁ まぁ その辺で適当に収めなさい」といいました。さすがに社長がそういうなら、とその場はおさまりました。でも問題は何一つ解決していないようにも思います。だって、「いい加減にしろ」という言葉の意味の解釈もあいまいなままだし、社長の「適当に」という言葉も、極めてあいまいです。「適当」というのは、本来は、あるべき状態に近い状態で、総合的に考えときの落としどころということですが、実際には、「いい加減」とほほ同義語として使わることも多い。オヤジに言わせると、だから、人の深層心理は言葉だけではわからない。顔色や表情、そのひとの立場、その場の空気などを寸時に読み取ることで総合的に判断することが大切なのだという。