鷹乃学習
鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)とは、七十二候が小暑の末候にかわり、鷹のヒナが巣立つ準備をする頃のことを言うということは、この前書きました。5~6月に孵化したヒナが、このころ飛び方や狩りの方法を覚えて、独り立ちをする準備をする季節だそうです。鷹は飛翔力が優れていることはよく知られていますが、空を自由自在に飛び回り、獲物を捕まえるスピードは時速80㎞に及ぶとも言われています。また、「能ある鷹は爪を隠す」とか、「鳶が鷹を生む」などという諺にも登場するように、その能力の高さには定評があります。鷹は紀元前から鷹狩りに用いられ、鷹を操る「鷹匠」もそのころから存在していたと日本書紀にも記述がある身近な存在です。このように知能指数の高い鷹ですが、人間と馴染がある割には、どうも悪役的イメージも強い感じがします。それは、たぶん活用する人間の側に問題があるのではないでしょうか。それどころか、最近は「爪を隠しっぱなしの鷹」や「爪を抜かれた鷹」もたくさん見かけられるようになりました。中には、能力もないし、鷹でもないのに「爪を隠す人」も登場します。
そうそう、世の中の現象を見ていますと、「鳶が鷹生む」こともある一方、「鷹が鳶を生む」ことの方が多くなっているようにも思います。というより、そもそも鳶を生んだと称されている「鷹」が本物だったかどうかが疑われることもあります。でも、人はどうしてそんなにルーツにこだわるのでしょうか。鷹の子であろうと鳶の子であろうと、子供はみんな無限の可能性をもっているもの。その子の特性をよく見て上手に育てれば、知能指数はあまり上がらないかもしれないが、人間の心を豊かにする能力を引き出すことは可能です。持って生まれた可能性を存分に発揮し、社会に貢献できる人材に育っていく環境を整えれば、親が誰であるか、肌がどんな色かなど取るに足らない問題になるはずなのに、鷹の顔をした鳶がいったん握った権力にしがみついているため、一向に世の中が浄化されず、持って生まれた能力を活用できない世の中がずっと続いているように思います。わが家のオヤジも、子供のころからずっとそのことを考えていたそうです。「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」を誰もが重視し、物の本質を見極めようとはしない。
時代はどんどん変化し、ITなどがこんなに発展してきているのに、世の中の枠組みはほとんど変わっていない。むしろ、その技術を利用して、旧態依然とした権力社会を維持しようと努めているようにさえ見える。人類は2度の大戦を経験し、かなり賢くなったかと思いきや、まるでかの時代を懐かしんでいるかのような振る舞いが繰り返されている。例えば、報復という名の反復行動は、一旦始まってしまえばとめどなく繰り返される。それが当事者だけの利得にだけ関わることでなく、第三者にも及んでいる。それはどんなに理論武装をした正義であろうと、矛盾の塊であるといわざるを得ない。こうした、やられたらやり返すというプロレスごっこ紛いの行動をいつまで続ける積もりなのでしょう。いい加減に目を覚まさないと、孫たちから恨まれることになるかもしれません。今の意思決定は未来を決めるものです。後のことは、その時代に生きる人が決めればいいこと、などと気楽なことを言っている場合ではないでしょう。経済的合理性だけを尺度に飽くなき挑戦を続けてきた「つけ」は今のうちに払っておかなくては。