岩出山伊達家(初代・宗泰、2代・宗敏)
1600年(慶長5年、)天下分け目の関が原の戦いが終わる。徳川家康による天下統一が決定的になると、政宗は許可を得て同年12月、仙台城の縄張りに着手する。そして国分氏の旧城・千代城を仙台城に改め、岩出山の士民に5月までに仙台に移るよう命じた。政宗にとって初めての新城である。特に力を入れたのが石垣で、石材の量は約2万トン、城下町作りも合わせると延べ100万人が従事したという。徳川家との縁から仙台城に天守閣を設けず、江戸の邸宅には京都から夫人や家臣を移した。江戸を発った政宗は1603年(慶長8年)、仙台城に初入城する。城下町の戸数は家臣・町人・寺方その他で約1万8千戸、人口約5万2千人と伝わる。そして政宗は、京都で生まれた数え年2歳の四男・宗泰に岩出山城を与えた。岩出山伊達家の誕生である。しかし残念ながら、岩出山における初代宗泰についての記録はほとんど残されておらず、その生涯は謎に包まれている。
また、岩出山城代の山岡志摩守は政宗゛が信頼する家臣の一人で、関ヶ原の戦いで家康から「百万石のお墨付」を持ち帰った人物だった。宗泰の大名取り立を願って江戸住まいをさせ、政宗は徳川への働きかけを行った。1635年(寛永12年)の帰国時は宗泰も輿に乗ることをゆるされ、5万石大名並みの扱いを受けるものの、翌年政宗が70歳で死去、その2年後には宗泰も亡くなってしまう。37歳の生涯だった。急死した宗泰だったが、嫡子もすでに亡くなっていて、庶子の宗敏が15歳で岩出山伊達家を継ぐことになる。宗敏は二ノ丸の居館建設、城下町の整備や新田開発を盛んに行うなど領国経営に力を注ぎ、岩出山要害はこの頃に完成を見たといわれる。だが不運にも居館は完成翌年に火災焼失、記録類の大半も失われてしまい宗泰・宗敏時代の詳細はいまだ不明だ。居館や八幡宮などいくつもの建設を行った宗敏が自身の隠居所として最後に建てたのが有備館と庭園で、のちにここが郷学(学問所)として使われることになる。
宗敏の遺産は今も岩出山の地に脈々と受け継がれているのだ。このように伊達家は、数々の遺産をのこしたが、その中の一つである「世界かんがい施設遺産・内川」もその一つ。室町時代から江戸時代の文献には「磐手沢」「岩手山」等の表記が登場するが、室町時代以前は江合川の流路となっていて人が住める場所ではなかった。江合川は、その昔は玉造川と呼ばれた。時代と共に江合川の流れは北東へと移動していき、その後、岩手沢の集落が生まれたといわれる。岩手山城のすそを流れている内川は、その旧河川の跡を城の防備と用水路を兼ねた水路として、政宗が整備したものと伝わる。これらは当時の新田開発にも大きな役割を果たし、また400年を経たいまも大崎耕土3300haを超える農地への、灌漑用水路として重宝されている。