岩出山以後の政宗(新たな領国経営)
政宗は入府した岩手沢を「岩出山」と改める。1591年(天正19年)9月のことだ。これに先立つ8月、秀吉の命を受けた徳川家康は岩手沢の実相寺を宿所とし、城修復の縄張りを行っている。菊地さんは「秀吉の再仕置軍は各地の城郭を整理し、修復が決定した城以外は取り壊しました。基準は城の大小ではなく、要衝かどうかが大きかったようです」と話す。縄張りを終えた家康は、引き上げる途中に仙台の天神社で政宗と会談している。場所は現在の仙台東照宮で、この時岩手沢城を居城とするよう提案する。理由は、領地のほぼ中央にあること、稙宗の時代から縁のある土地であること、奥州道の要衝であるなどだった。もちろん、提案の背後には秀吉の意向がる。地名を改めたのは、岩手沢よりも力強い響きの岩出山にしたとの説もあるが、定かではない。そこから新領国における家臣の配置や知行地の経営、新田開発などを進めていくことになる。
この時期以後の政宗は非常に物入りだった。大崎・葛西一揆平定の命令が出たり、朝鮮出兵に駆り出されたり、とにかく戦費が嵩んだ。そのため秀吉から鉱山の開発権利を譲り受けたり、新田開発など財政基盤強化のためさまざまな手法に取り組んでいる。とても居城でのんびり過ごせる状況になかったのである。「政宗が岩出山城で暮らした期間は、すべて合わせても数ヵ月程度。1591年9月に米沢城から移ってきて、翌年明けすぐの正月5日には上洛のため3千人の家臣を引き連れて岩出山を出発しています」。朝鮮出兵にともなうこの出陣命令では、肥前名護屋(佐賀県唐津市)へと出立する政宗軍の姿を見た京都の人々が、「伊達者」と声をかけというエピソードが有名だ。その際の伊達軍の姿を再現したのが、毎年岩出山で行われている「政宗公まつり・出陣行列」だという。上方での暮らしがはるかに長く、1595年に岩出山へ戻った時もわずか2~3ヵ月で再び上洛している。
政宗の意を受けた岩出山留守居・屋代景頼は、岩出山を中心にした道路の整備、磐井郡などの金・鉄産地からの輸送や役人派遣のための伝馬制度など、領内の支配を着実に進めていた。岩出山城は、奥羽山脈から伸びた丘陵が平野に滑りこむ先端、標高108mに築かれた山城だ。北・東端が江合川に浸食された断崖絶壁の、天険要害の地である。北の高い崖の上に本丸、西の広い平地が二ノ丸で、これらが連なって堀や土塁、腰曲輪(くるわ)がめぐらされている。当初は山城(本丸)と下屋敷(二ノ丸)が中心で、金丸・天王寺館・蔵屋敷などがあった。城そのものに天守的な要素があったため天守閣はなく、建物は平屋か二階建てと推測されている。低い場所に馬場や下屋敷、倉庫等を配置し、大手門・内門などが築かれていた。城下町には一ノ溝、二の溝と呼ばれる二重の土手があり、大身の侍屋敷は城に近い二の溝の内側、一般家臣は一ノ溝と二ノ溝の間に屋敷割をした。そして出羽街道沿いを、御譜代町と称される米沢から連れてきた御用商人の町とした。