環境は最大の公共財
牛を放牧するのに最適な牧草地がある。最初は誰か特定の人の所有地ではなかったので、牛飼いたちはこぞって牛を連れてきて草を腹いっぱいに食べさせる。しかし、いかに広大な牧草地とはいえ、キャパシティに限りがあるはずです。我も我もと押し掛ける牛飼はやがて縄張り争いをするようになる。そこで、牛飼いたちは牛たちを放牧するルールを定め、少しずつ我慢を強いられても、互いに共存する道を選択するわけである。これは有名な経済学の理論ですが、特に経済学者でなくても容易に理解できます。とはいうものの、現実には漁獲量の割り当てや200海里問題など、未だに解決しない問題が山積しています。このような問題が起これば、抜本的な解決策は「自分の利益を最大にすること」と「他人の領分を冒さないこと」が均衡するようにルールを決めることですが、人の感情は一定ではなく、それに置かれている立場も微妙に違いますから、簡単にはいかないのが通例です。中には、利害関係者の統治能力を超えてしまい、司法の場に持ち込まれることもしばしばありますが、法律とて万能ではありません。
諫早湾の埋め立てを巡る争いなどは、二つの裁判所が下した判決が異なるという事態にまで発展しています。物事は合理性があるかどうかが判定の鍵になりますが、元来、損得というものは合理性だけでは語れないものですから厄介です。いま、世界中で騒ぎになっているコロナウィルス問題も、誰にとっても棲みよい環境を共有するためには、目先の利益を犠牲にしなければ、最大の公共財である環境を保つことができません。しかし、ミクロの問題となると話は全く別のものになってしまいます。すなわち、みんなで作り上げたきれいな環境があるから、あらゆる商売やビジネスが機能していることは承知しているのですが、いざ、その環境が破壊される虞が生じると、自分利益が失われることに対する被害者意識が、環境破壊に優先してしまいます。でも、それは誰しも同じで、それを直ちに非難する気持ちにはなれないものです。つまり、この瞬間は、商売を休業にすれば直ちに命にかかわるが、環境は今すぐなくなるとは考えないからでしょう。このように、問題の大きさや重大さは、それを見積もるものの立場によって違うからです。
要するに、同じ大火であっても、自分の家が燃えている時と対岸の家が燃えている時では、ことの重大さは全く違うということです。これを不人情だとか、冷たい人だとか詰っても始まりません。人類みな兄弟などとはきれいごとです。そんなことが本当なら、世界中の人々が朝から晩まで常に泣きっ放しなり、世界の平和など永久に訪れません。ですから、こうした青臭い人間愛は置いといて、周りが見えなくなって、自分が一番不幸であるという内向きの考え方を解きほぐすことから始めなければならないと思うのです。それには、自主的に現状を正しく認識してもらうことなのですが、それは悲しみの渦中にある人々に求めるのは酷というものです。ここは、周りの人たちが環境を木共有していることを優しく解きながら、叱咤激励をするという伝統的なアナログ作戦しかないような気がします。東日本大震災の時も、「危ないから逃げろ」と言われても、状況が呑み込めず犠牲になった方も多いと聞きます。事態の重大さが認識できれば、同じ行動をとるものです。そして、まずは、周りの人が情報を整理してあげることです。