興国山 天王寺
世界農業遺産「大崎耕土」を走る国道47号。田んぼを抜け、青空の下に見えてくる天王寺は清々しい印象のお寺だ。「岩手・宮城内陸地震ではこの本堂だけがつぶれて、周りの家々は大丈夫だったんですよ」と話されるのは藤澤浩之住職である。この天王寺の歴史は587年まで遡る。朝鮮半島から仏像が伝わったのが552年物部氏と曽我氏の争いが起き、曽我氏の勝利により仏教が公式に認められ、全国へと広まる。「即位した推古天皇の発願のもと、聖徳太子が物部氏供養のため全国に創建した四天王寺の一つといわれています」。1400年以上という気の遠くなるような歴史を持つ寺は、かつて五重塔、七堂伽藍を備えた大きな中世寺院だったと伝えられている。
500年にわたり無住職の時代を経て、本格的な再興は1246年、鎌倉建長寺の大覚禅師による。さらに伊達政宗が岩出山に移ってきた際は覚範寺と改称、虎哉和尚が中興の祖に。政宗が仙台に移ることで、天王寺の寺名に復した。長い歴史を今に伝えるのが、大悲閣(観音堂)に安置された如意輪観音半跏像と四天王像だ。どちらも市指定有形文化財となっており、昨年秋、神奈川県立金沢文庫での特別展に出店され、返ってきたばかりだそうだ。静謐の気が漂う観音堂。観音様は、首を傾げ、手を頬に添え、人々の祈りに静かに耳を傾けているようだ。半眼の目がどんどん優しそうに見えてくるから不思議である。造られたのは鎌倉時代で、大覚禅師が運慶を招いて造仏したと言い伝えられている。
運慶に関する記録には10年間の空白があり、東国に行っていたという推論もあって、もしかするとこの地に来たのではと浪漫が掻き立てられる。観音様にまつわる話はもう一つ。1932年の火災の際、折からの大風に本堂、観音堂と延焼する中、近在の小学生たちと住人たちが観音様と四天王像を運び出し、水が張った田んぼに入れたため、今に遺ったという。同じ運慶作とされる聖観音像と聖徳太子像は、この火災で焼失している。そのほか、境内には、昔乳の出ない女性が甘酒をかけると乳が出るようになったと伝えられる樹齢400年の乳銀杏や貴重な鎌倉・室町時代の板碑なども見られる。本堂を出ると、農作業へ向かう近在の方だろうか、観音堂に向かって一礼するのに出会った。その穏やかな姿に、観音様とともに生きる、地域の人々の心を見る思いがした。