知らないお姉さんには
昔の子供たちは親から「知らないおじさんに声をかけられても、ついて行ったり、何かをもらってはいけませんよ!」と教えられたそうですが、それから数十年生きてきた昔の子供たち(今の高齢者)には、「知らないお姉さんに声をかけられても、点滴を変えてもらってはいけませんよ!」とでも教えてあげなければいけならしい。高齢者に限らず、病院に入院しているときは、看護師さんの言うことは神様の言うことと同じぐらい信用しているので、一々点滴をする度に家族が毒見をしなければならないなど、思いもよらないことです。病気やケガを治療し健康な体を取り戻そうとして駆け込んだ病院が、どこよりも危険な場所であるなどというのは、「申しわけありません。二度とこのようなことのないように、今後は管理体制を厳重にします。」などという軽い言い訳では片づけられる問題ではありません。
人は、生まれることは、自分の意志でコントロールできませんが、その後の人生においては、ふしめふしめで自分の行動を決定しなければならない場面が生じます。この意思決定が難しいものほど後戻りができない、あるいは、大きなコストを伴う決断です。この状態は、いわば「賽は投げられた」という状態です。つまり、一度入ったら逃れることが難しい状況に置かれるということです。何らかの事情である町に住み、そこに家を建て生活の基盤を築くと、別の土地に移るのはコストがかかります。ある航空会社を利用して、マイレージ・ポイントがたまると、次回以降できれば、同じ航空会社を利用しようとして行動する。人はこうした意思決定をできれば後悔したくないので、現状の不便や不満をリカバリーしようと努めるのは当然でしょう。
生きていくうえで抱えるストレスを少しでも軽減するため、安心して手足を伸ばそうと訪れた病院が、真逆の医療を提供する施設であるとは誰も疑うはずがない。そこに目をつけ、やりたいほうだいに振る舞い、人の命を終わらせるという恐ろしい女が、善良な看護師に混じり、平然と通常の勤務をしていたというのは、あまりにも怖すぎて、背筋が凍る思いです。このような仮面看護師はめったにいないと信じたいのですが、存在すること自体が大きな脅威です。元々、人間の心を持っていなかったとすれば、ある意味納得せざるを得ない気もしますが、純真無垢な人間として生まれてきたにもかかわらず、いつしか鬼畜のような人に変わったのであれば、それを解明してもらいたいものです。そうでなければ「人を見たら、〇〇と思え!」と、教え直さなければなりません。