郷土の偉人伝-吉野作造(3)
吉野作造の名を日本中に響かせたのは、大正5年(1916年1月『中央公論』に発表した「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」であった。この中で「政治は国民の利益と幸福」を実現させることが目的であり、政治の最終的な監督は民衆が行わねばならないという「民本主義」を主張した。現実的で具体的な新しい政治の在り方に、吉野の主張は大きな反響を呼び、学内外の青年達からも関心が寄せられていった。これが大正という新しい時代の象徴的な思想と社会に受け止められ、民本主義は大正デモクラシー運動(政治・社会の自由・民政化)の理論となった。吉野の言論活動は論壇で注目を浴びる存在となり、多くの思想的影響を与えている。同郷の先輩土井晩翠は、吉野の活動に対して「青春の意気」という詩を贈っている。さらに国民の選ぶ議会が国政の中心になるよう主張し、元老や枢密院の廃止、統帥権をはじめ軍部に対する批判の手を止めなかった。
そのため官憲は次第に吉野の言動に警戒感を強め、右翼や軍部は目の敵とした。大正デモクラシーの旗手となった吉野の周囲には、親友の小山東助や内ケ崎作三郎、労働運動指導者の鈴木文治(金成町)ら、同じ宮城県出身のクリスチャンが活躍していた。大正13年(1924年)東大教授を辞任し、朝日新聞に入社した。吉野の時局問題講演会は全国で開催され大盛況であった。だが神戸での講演会で、五箇条の御誓文発布は国内統一に苦心した新政府による窮余の一策であったとの趣旨で、「悲鳴」と表現したのが不敬であるとされ、わずか5ヵ月ほどで退社を余儀なくされる。吉野はこのあと身体をこわし長期入院した。晩年の吉野がもっとも心血をそそいだのは明治文化・政治史の研究であった。「明治文化研究会」の初代会長となって編纂に取り組み、『明治文化全集』全24巻を刊行し始める。明治期の多岐にわたる基本的文献を集成したもので、貴重な資料となっている。
また「賛育会病院」など人を助けるため社会事業に懸命に取り組んでいた。普通選挙法による最初の選挙で、吉野は娘婿の赤松克麿の選挙応援のため病身をおして故郷に駆けつけた。熱烈な雄弁を振るい、会場の古川座は場外にあふれるほどの盛況で、その中には東京からついてきた特高もいた。だが連日の厳寒での応援演説で吉野の病状は悪化し、5年後の昭和8年(1933年)3月18日、清貧多忙のうちに多難な生涯の幕を55歳の若さで閉じた。幾度もの苦難に立ち向かい、「人世に逆境はない」とする精神は、人々に大きな感銘を与えた。吉野が主張し続けた民本主義は、戦後の日本国憲法の誕生に大きく貢献した。維新後の国を憂え、国を愛して、国民のために闘い続けた吉野は、世界に誇る政治学者であり、政治思想家であった。