郷土の偉人伝-吉野作造(1)
生まれつきおとなしかった吉野作造が、政治学者になって「民本主義」を発表した。世間の政治への関心を高め、大正デモクラシーという運動となり、吉野の言動は全国の青年たちに大きな影響を与えた。画期的な政治思想のため、その後官憲の厳しい弾圧を受け一時悪者扱いされることもあった。戦後の吉野の業績は高く評価され、福沢諭吉、夏目漱石らと共に近代日本の文化を創設した巨人の一人とされている。吉野作造は西南戦争の翌年、明治11年(1878年)に志田郡大柿村(現大崎市古川十日町)で糸綿商の長男として生まれた。父の年蔵は政治活動に熱心で、後に町長を務めている
作造は才能に優れ古川高等小学校を首席で通した。時代は大日本帝国憲法発布、教育勅語発布、帝国議会が開かれたころで、仙台藩の直領であった古川では政治談議が日常的に交わされていた。新設の宮城県尋常小学校(現宮城県仙台第一高等学校)へ入学したとき、村の人々は入学を祝に国語辞書『言海』を送り郷土の星と期待した。吉野14歳の時である。校長は『言海』の著者大槻文彦で、自ら倫理の授業を受け持って若者たちに自由闊達な生き方を教え、「あなた方の中から将来、大臣や学者が出るのです」としばしば語り、近代日本を担う人材になることを託していた。
海防の先覚者林子平の百回忌に当たり、大槻校長は全学生を通して林子平の講義をした。子平の行動力と時代に先駆けた思想と憂国など、権力者にへつらわない子平の生き方に吉野は感銘し、雑誌『青年文』に「林子平の逸事」を投稿。偏屈な島国根性の蒙を開いてくれた大槻校長を生涯深く敬愛した。中学校まで首席を通した吉野は、旧制第二高等学校(現東北大学)の法科に無試験入学した。当時の仙台には戊辰戦争での敗戦による挫折感もあって、新に信ずるものとしてキリスト教が盛んであった。あるとき友人に誘われ尚絅女学校校長のミス・ブゼルの聖書研究会に参加した。