郷土の偉人伝-吉野作造(2)
親友の小山東助(気仙沼市出身・衆議院議員)、先輩の内ケ崎作三郎(富谷市出身・衆議院副議長)ら二高の秀才クラスが、毎週土曜日に集まることで英語と聖書を学び、洗礼を受けてクリスチャンになった。吉野は後年、ミス・ブセルによって「人生行路の指針を得た」と語っている。二高を卒業した吉野は、明治33年(1900年)東京帝国大学(現東京大学)に入学した。吉野は東北の出身を強く意識するようになり、内ケ崎や小山らと「吾ら東北の青年は日本の精神文明の原動力にならねばならない」として結束を強めていった。
彼らに大きく影響を与えたのは、本郷教会の海老名弾正牧師で、学徒としての科学的思考と宗教的信条との間で葛藤していた吉野は、海老名の人格主義的なキリスト教に共感した。明治の中期からナショナリズムが一般的に広がり始めたが、勤王思想中心の明治維新観に吉野は違和感を持っていた。在学中「衆民政治(デモクリシー)」の講義を聞いた吉野は感じるものがあり、社会主義の講義の講演会に出席することが多くなった。大学院に進んだ数年後、教授の勧めにより清国の高官袁世凱の長男の家庭教師として雇われたが数年して帰国し、まもなく、東大の助教授に任命される。
このとき31歳で、4女を抱える親となっていた。大正の始め政治史研究のため欧米への留学を命じられた。残る家族の生活費のため金策に走り、通信大臣後藤新平と初対面した。後藤は快諾し、3年間にわたり多額の経済支援をした。二人はおよそ20年にわたる交流を続け、吉野は生涯後藤への恩を忘れなかった。吉野は独・英・米に留学し先進国の政治と共に、民衆運動など生きた政治も学び、日本に即した民主主義の形を深く考えるようになる。帰国後東大法科教授に昇任。吉野の初講義はまだタブー視されていた「社会主義」であった。以来学生に政治史を教えるだけでなく、雑誌『中央公論』などを通じて政治の在り方を数多く発表し、国民向けの評論や講演会を精力的に展開していく。