逆転現象は起こるのでしょうか?
大野君(人気アイドル・グループ嵐のキャプテン)のご利益で大野神社(埼玉県)が大繁盛。お参りした人がたくさん合格しているのか、それとも、合格できるだけの力のある人がお参りする神社だから、それにあやかるため、多くの受験生がお参りに訪れるのか。人間の頭脳が優れているから人工知能が生まれたのか、それとも、人口頭脳が優れているので、人間はロボットに使われるようになるのか。株価が下がるから自分も売りに出るのか、売りに出た人が多くなってきたから株価が下がるのか。トンネルの入口はどちらで出口はどちらか。こうした「卵が先か、鶏が先か」みたいな議論は無数にあります。また、因果関係から言えば、誰かにいじめられたり、何か悲しいことがあったことが原因で「泣く」ことは当たり前としても、その泣き方の度合いは、必ずしも原因と結果という関係にあるのかどうはどうかは疑問に思うことがあります。つまり、最初は泣くだけの悲しい事象が生じたことは確かなのでしょうが、往々にして、泣いたことが余計に悲しさを増し、大泣きにするといった場面をよく見かけます。
本当のところはわかりませんが、ボクが思うには、「泣く」ということ自体悲しいことなのだと思うのです。だから、一旦泣き出すと自分は悲しいのだという感情が湧きたち、悲しいのだから泣かなければならないという、センサーが働くのではないでしょうか? ともあれ、そうしたことに多少は矛盾を感じていながらも、それを「人間らしい」と大らかにとらえて生きているというのは素晴らしいことです。それよりも恐ろしいのは、AIが人間にとって代わる時代がすぐそこに迫っているということです。今でさえ、ビックデータを解析して、どのような食品がどの程度売れるかをコンピュータが予測し、品ぞろえをしておくというシステムが稼働しているようです。これは、いうなれば、自分はいつどんなものを食べるかをコンピュータに予測されているということです。これを突き詰めると、究極的には、自分は今晩焼肉を食べたいと思っているかどうかを自分よりAIの方が知っているわけですから、食事をする直前に体調を崩して食欲がなくなっても、貴方は今これを食べたいはずなので、必ず食べなければなりません、とAIに諭される(叱られる)ことになりかねない。
古典落語(粗忽長屋)に、行倒れになって死んでいる弟分に向かって、「この野郎はそそかっしいやつで、自分が死んだこともわからねい! こいつの居場所を知っていますんで、今本人を連れてきます」というのがあります。そして連れてこられた弟分とその行倒れ人が対面し、弟分が言うには、「確かにこの死人は俺に間違いないが、そうするってぇと生きている俺はいったい誰なんだ?」という落ちのついた噺です。今までは、そんな馬鹿なぁ と笑って聞いていましたが、もしかすると、これからのAIの時代を先取りした噺なのかもしれませんね。コンピータなど存在しない時代に、こんな面白い噺を作った人間の方が、AIより進んでいると思いたいですね。第一、AIに自分の食べたいものを決められたりしたら、"茶舞台をひっくり返す人"だっているかもしれません。地球全体を破壊できる原水爆だって、人がボタンを押さなければ爆発することはありません。AIだって所詮人が作った便利な道具ですから、人間を尊重しないAIを作らないよう寸止めする人間の知恵さえ養えば、そんなに心配することではないように思うのですが、楽観的過ぎるでしょうか?