7年という月日は短くはない
人は自分の人生をどのように生きるかを考えるとき、一生のうちの7年という月日はそう短くはないはずです。あの大震災の日に生まれた赤ちゃんは、もう小学生になっていますし、小学6年生だった児童は、高校を卒業するまでに成長しています。人の悲しみはそれぞれですから、大震災により失った日々は二度と取り戻すことはできないと、嘆き悲しむ気持ちは理解できます。しかし、ここで留まっていては、人生を精いっぱい生きたことにはならないのでないでしょうか。一生を終えるときに、自分の人生が後悔することばかりだったら、こんなに悲しいことはありません。ボクは、大震災の3年前に旅立ちましたが、オヤジとお母ちゃんが、立ち直ろうとしている姿を見てとても幸せに思います。犠牲になられた方々もきっとボクと同じ思いでいるに違いないと思います。
悲しい出来事を忘れてしまうのではなく、小さくたたんで心の奥にしまっておけば、その分心の中にゆとりができ、楽しいことで満たされるスペースができるのではないでしょうか。人にはそうした知恵を祖先から受け継いできたからこそ、こんなに長く存在し続けてこられたのだと思います。自分が幸せになることに罪悪感を持つのは、犠牲者の慰めにはなりません。むしろ、悲しみを乗り越えて、幸せになることこそ犠牲者が一番願っていることではないでしょうか。不幸は招いても招かなくても、勝手にやってきますが、幸せは、決して向こうからやってくることはありません。そして、都合のよいことに、幸せになるには、お金はそれほど必要ありませんし、姿かたちもありません。他人から見ればささやかな幸せでも、自分にしかつかみ取れない幸せもあるはずです。
ボクたちの仲間にも、津波に流されながらも必死であの冷たい水の中を泳ぎ、自分の家にたどりついたという強者もいれば、震災から1週間もたってようやく遺体で発見されたという可哀そうなワンちゃんもいました。また、買い主が亡くなり、何カ月もさまよいやせ細った姿でようやく保護されたという話も聞きました。それでも生き残ったみんなは、悲しみを背負いながらも前向きに生きています。人の悲しみはそれぞれですから、その重さも他人が測り知ることはできません。しかし、一度リセットして、前向きに歩き出すことはできるのではないでしょうか。そうしなければ、自分の人生を精いっぱい生きるという権利を使いこなすことはできないように思うからです。短い人生をもっと短く生きるか、それとも、少しでも長く充実した人生にするかを決めるのは自分自身です。