カレンダーと気候のシーソゲーム
最近の気候は変動が激しく、ついこの間まで台風ラッシュに晒されていたと思ったら、今度は大寒波が到来し、春を待ちわびる北国の人々の感情など、どこ吹く風といった様子です。地球上の人々が二酸化炭素を大量に排出するため、大気圏を覆っているオゾン層が壊れ、地球の温暖化が進むとこうした気温の変動が大きくなるという理屈は、何となくわかりますが、感情的にはなかなか素直には受け止められません。それだけに、いつまた、予想を超える気温上昇や大寒波が到来するのかが読み切れず、当惑するばかりです。特に今年のように氷点下17度という気温が、隣町でいとも簡単に記録されると、いったいどんな備えすればいいのか、まったく見当もつかず、あれこれと物質的な備えをするよりも、お祈りをした方がよほど近道で効果的ではないかとさえ思ってしまいます。
気象衛星が打ち上げられて以来、天気予報の精度は格段に高まり、以前のように、「晴れ後曇り、ところによっては雨、または雪」などというあいまいな予報はなくなり、信頼性は増していますが、大幅に外れた場合は、気象庁や気象予報士が責任を取るというまでにはいっていません。特に「雨」という予報が外れ「晴れ」になった時は、誰もそれを咎めるなどということはありません。ところが地震や火山噴火の予報は、予報を出すのは、実際に被害が生じた後になることがほとんどです。しかも、安全のためとはいえ、「しばらくは警戒が必要と思われます」という予報になる。予報を出す側としては、相当オーバーにいわなければ、混乱を招く虞があるので当然なのでしょうが、ちょっと抵抗があるは、「専門家の見解」として語られることです。
失礼ながら、テレビでみている限りでは専門家らしさはほとんど感じられません。むしろ、「本当のところはよくわかりません。ですから、万一に備えて十分に安全確保に努めてください」とでも言い方の方が、よほど好感が持てるような気がします。確かに、科学は日進月歩で発展していますが、その方向は、科学によって大自然を矯正するのではなく、自然とうまく付き合う方法を探るというのが正しい姿勢のように感じます。自然もそのことを望んでいるので、私たちが、かなり季節がずれていると感じているときでも、万障繰り合わせて、最終的にはカレンダーに合わせてくれているように思うのです。例えば、あんなに暑かった去年の夏も、気がつけば秋の紅葉シーズンには秋風を運んできてくれたし、今年の大寒波の舞台裏でも、次のシーズンの準備をしているに違いありません。