「弓聖」と仰がれた阿波研造
大正5年(1916年)37歳の時、研造は京都の武徳会で2位、翌年は332人中全的全皆中の成績で特選、全国一位となった。第一次世界大戦が終結したころである。研造は強弓を引き、技術はますます円熟し百発百中となった。だが雪荷派の経典は「それ射は、心術を第一として」と、精神の持ちようを最重要視しており、研造は単に的中を求める競射に疑問を持ち始めた。この頃から松島瑞巌寺の松原盤龍禅師を師として参禅する。寺では若い層の修業のため弓道場を作り、研造は長く指導した。「爾来、愈々修行研鑽、域は名僧の門を敲き哲理を極め、又は参禅して悟道に徹す」。我れ弓道を学ぶこと二十年、弓道は禅なり」と宣言する。大正15年(1926年)、研造にとり大きな出会いがあった。東北大学に招かれたドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲル博士が、弓道を通して禅と日本の精神を学びたいと研造の下に入門した。
研造は少しの手抜きもせず「弓禅一味」の弓道を徹底指導し、ヘリゲルは厳しい修行を通じて受け止め、ついに五段の免状を受けた。ヘリゲルは帰国後その体験を出版。昭和23年(1948年)には「弓と禅」を出版し、数ヵ国語に訳され弓道と禅が世界中に紹介された。アップル社の創業者スティーブ・ジョブズの愛読書にもなり、70余年経た今も広い層に読まれている。昭和2年弓道範士を授与される。研造は「弓禅一味」の理念を普及するため「大射道教」を興した。元寺小路に本部道場を建て、数年後には全国に97支部、門弟1万4千人余となる。高段者には後に教主となる神永政吉、全日本弓道連会長となる中野慶吉らがおり、多数の逸材を育てた。一時病に倒れたが奇跡的に回復し、再び道場に立って子弟の教育に当たり、親身の指導と気遣いを通じて弓の神髄を教え込んだ。
生涯を通じて祖先と木村師範を尊び、名誉、金力、権力を求めず、弓の道を通して人格の陶冶に精進し、「弓聖」とさえ称された。昭和14年(1939年)3月仙台にて永眠、享年60歳であった。墓所は石巻の称法寺。見事な「弓道範士阿波研造碑」が建つ。子弟が『阿波範士言行録稿本』を編纂。指導したヘリゲルの書によって弓道が国際化し、国際弓道連盟が結成された。さらにキリスト教徒の修業にさえ、日本の禅が取り入れられる出発点を作った。研造は弓を引いている瞬間の我は宇宙と一体をなし、一射に全精神をこめて絶命の覚悟で弓を引く「一射絶命」を唱道する。弓道が精神修養の方法であるとした。研造の教えはわが国ばかりでなく、海外で今も高く評価されている。特に「弓聖」であり、不出世の弓道家であった。