「弓聖」と仰がれた阿波研造
阿波研造が弓道日本一となったのは大正6年(1917年)。「弓道は禅なり」と悟り、近代弓道の礎を築いた。9年後、ドイツの哲学者ヘリゲルの求めに応じて、「弓禅一味」の弓道を親身になり徹底指導した。そのヘリゲルの書によって、阿波の実践する弓道と禅が欧州中に広がり、世界の文化、宗教面に今も影響を与え続けている。阿波の最大の功績といえる。研造は明治13年(1880年)、桃生郡大川村横川(石巻市)の麹屋でき肝入佐藤家の長男として生まれ、山野を駆け回り強健な身体と奔放な精神を培った。12歳のころ大忍寺の住職に論語、孟子、仏典、書道を学び、後に漢字の私塾を開いて教えている。20歳で石巻の麹屋阿波家に入婿し、家業にも慣れてきた翌年近くにある弓術場に入門した。道場主の木村辰五郎時隆(1844~1920)は、白石片倉家の家臣で飛領赤井村星場に住む、正当な日置流雪荷派(へきりゆうせつかは)を伝える最後の弓術家であった。
戊辰戦争で駒ケ嶺、旗巻峠に参戦し、戦後は石巻に出て市内裏町(中央二丁目)に弓術場を開いた。名利を求めない木村の謙虚な人柄と、個性を認める的確な指導によって、同情は多くの旧藩士が修行するところとなり、高橋徳治、長谷部慶助、錦戸宇内や阿波研造などの逸材を生んだ。木村は後に旧制二高と仙台医専の弓術師範に就いたが、病をえて一年ほどで辞した。明治32年(1899年)初めて弓を手にした研造は、木村師範の厳しい指導と持ち前の武芸の才能によりめきめきと上達した。師範から武士道に則った倫理的な弓を教えられ、人格形成にも励んだ。遂に奥儀を窮め、わずか2年で免許皆伝され仙台藩雪荷派の弓術を受け継ぐ。自宅の裏に武術修練場を開いて若者たちに武術を教えた。しかし、日露戦争前の不景気で本業の商売が低調になり、さらに町内の火災で自宅が類焼した。
明治42年(1909年)、木村の奨めもあって一家は仙台に出て弓道指南家となるが、学ぶものはほとんどなかった。その頃、東京の弓術界で一世を風靡していたのは新射法を興した本多利実だった。研造は極貧の生活であったが度々上京し、本多師範から「正面打ち起こし」の指導を受け、翌年日置流竹林派弓術を伝授された。研造の引く剛弓と中(あ)たりの正確さが評判になる。その後も仙台の道場で独り修練に励むが、全国から来る射手との他流試合に一人で戦い、「私は師は遠く、独りで泣いており候」と心境を伝えている。木村の配慮で仙台医専と旧制二高の弓術師範に就いた。部員に的中を重視した指導を徹底的に行い、翌年の東京帝国大学弓術部大会で二高が一位を独占し、全国高専校弓道大会でも毎年優勝を重ねた。研造は真摯勇猛な稽古をつける一方、よく弟子の面倒を見て、これから30年間生涯を通し師範を務めることになる。