レオ君の清々しい笑顔
先日、わが家で行われた久しぶりの町内会。話がはずんだのはお伝えした通りですが、昔のことを思い出させてはと、みんなが気遣ったレオ君のことですが、いざ会ってみると、そんな気遣いなど全く無用だったことを思い知らされた。でもみんなが心配するのも無理からぬことです。というのは、存命の時のレオ君は、食べるものも満足に与えられず、重い鎖に終日繋がれたままで、体もやせ細っていたからです。ボクを始め他のワンちゃんたちは飼い主に恵まれ、大好きな散歩も欠かさずすることができていました。レオ君は人が恋しくて、家の前をボクたちが通るたびに自分のおかれている境遇を恨んだに違いないと思っていたからです。それがどうでしょう。そんな過去など全くなかったかのような明るい笑顔で、みんなの輪の中に溶け込み嬉しそうにしているのを見たとき、傍らで見ていたオヤジなどは目を疑っていたようでした。オヤジに限らず、並みの人間なら誰でも、つらい過去を乗り越えて今日があるのだと考え、ひた向きな生き方を讃えるはずです。いや、人間に限らず、ボクたちもそう思いました。
長い間人間社会で生きていると、動物も人間も同じような考え方を持つようになるのは自然なことでしょうから、ボクたちもレオ君の心の強さに敬服しました。しかし、長く話し込んでいるうちに、少しずつ考えが変わってきました。それはどういうことかというと、レオ君は、悲しかったことを忘れたわけでもなければ、そのとき、みんなを羨ましいと思ったこともすべて覚えているようなのです。そのうえで、今に至った道のりをまるごと楽しんでいるようなのです。つまり、自分が受けた処遇を恨む前に、そうせざるを得なかった人間の営みがあったはずだから、それが少しぐらい気に入らなかったからといって、その人間との出会いを恨むのは筋違いだということらしいのです。えてして、人間は、自分の不幸を他人のせいにしたがる一方、自分の幸運は、自分の実力で勝ち取ったものだと勘違いする習性がある。長いあいだ人間と生活を共にしてきたボクたちも、実はそう思うことで自分を慰め、他人のせいにすることで物事を合理的に処理しようとする癖がいつの間にか染みついてしまっている。
その点レオ君は、自分が楽しいのも悲しいのも、自分が少なからずかかわって生じた現象だから、他人を恨むということだけでは片手落ちだというのです。自分が絶好調の時は、他人の貢献を軽く見るくせに、いざ歯車が逆回転し始めると、すべてを他人のせいにする。たしかにその方が楽だが、他人からは尊敬されない。言われてみれば、世の中すべからくこうしたエゴ集団の連鎖で成り立っている。とはいっても、人間社会を否定するつもりはない。重要なことは、そうした社会の中で生きていくことの矛盾をまるごと受け入れるのでもなく、さりとて、無理に不合理を解消しようとする偏った正義感に組みするものでもない、現実に即した生き方がスマートな生き方なのでしょうか。ここにも大きな矛盾があるようにも思いますが、とにかく、レオ君は、ボクたち仲間の中では達観したワンちゃんとして映りました。今回の町内会の会合でわかったことは、「どうするのか? と人に問いかけながら、自分では身勝手な振る舞いをする」。そんな人間たちをなおす薬を開発することは、新型コロナワクチンの開発以上に難しいと感じた次第です。