友達の友達はみな友達か?
歌の文句にあるように「友達の友達はみな友達だ」と思いたいが、この連鎖が時として途切れることがある。というより、現在の世界情勢を見ていると、友達の友達は友達ではないと思わざるを得ないことが多すぎます。友達の輪が一つに繋がっていれば、戦争など起こるはずがないのに、お互いの小さな利害関係にこだわりすぎ、戦禍を招いてしまう。そして、その代償を払うはめになり、友達をも巻き込んでしまう。そうした歴史的失敗を反省し、きめ細かな国際的枠組みを築いてきたはずです。今、中国の北京で開催されている冬季オリンピックもその一翼を担っているものでしょう。ここで連日繰り広げられる競技は茶の間の桟敷席で見ていても迫力満点で、毎日わくわくしながら観戦しています。また、競技の合間に見せる各国の選手たちのフレンドリーな振る舞いは、フェアプレーの精神に満ち溢れた清々しさが感じられ、とても大らかな気分になります。この思いは、政治家のみなさんも同じだと思うのですが、一度小競り合いが生じると、あっという間にこちらの友達集団とあちらの友達連合が、あたかも親の仇のようにいがみ合います。
ミサイルや大砲の弾がいくらかはしりませんが、一度の戦闘でどれだけ消耗するのかを考えただけでも空恐ろしい気がします。そして、このお互いの攻撃により、損壊する当事国の建造物の損壊、失われる市民の命、難民の発生など計り知れないものがあります。どんなに大義名分をかざしても、平和を取り戻すための戦いは言い難いような気がします。お偉い先生方に言わせれば、それもこれも熟慮に熟慮を重ねた結果の意思決定であるといわれてしまいそうですが、あの戦争に踏み切ったことが、今の平和につながったということは有史以来一度もなかったような気がします。現に、現在の勢力図に誰もが納得しているわけではないから、戦争が絶えないのではないでしょうか。しかし、"それはあんた戦争が中途半端だったからだよ。だからもう少し戦争をしないと真の平和が来ないのだ" などと切り返されるかもしれませんね。でもそれは、はっきり言って屁理屈というものです。人類が傍若無人に振舞ったせいで、傷んできた地球を修復させるべき時なのに、地球を壊す戦争を正当化することなど断じて容認できません。
オリンピックは、生まれも育ちも違い、価値観や考え方も異なる人々が、お互いの存在を尊重し、一つのルールのもとで競い合うことに意義があるわけですから、ほんの一握りの人々の商業主義者によって毒されることはあってはなりません。お互いの主義主張に耳を傾け理解し合えることこそ、経済的合理性にも叶うと考えます。つまり、買い手は売り手でもあるわけですから、お互いが健康で生産活動に励むことで、需要も供給も増えることになります。その人達の存在意義を確かめ合うのがオリンピックと考えるべきでしょう。その交流の場で垣間見られる選手の力強さや真摯な努力が友達の輪を広げるに違いありません。共通のルールで正々堂々と戦う。それは、小学校や町内会の運動会でも同じです。江戸の昔から続いている大相撲などはその典型的なもので、公正なルールに基づいて公正なジャジを下すことが前面に打ち出されれば、みなが納得します。そういう意味で、国際的な一大イベントである冬季北京オリンピックを、同じ土俵で戦うことの価値と面白さを噛みしめながらじっくりと観戦することにしましょう。