瑞巌寺
穏やかな湾内に260を超える島々が浮かぶ景勝地・松島。これらの島ができたのは、縄文時代から弥生時代にかけて起きた、海面上昇と地盤沈下によるものだという。古代の松島では、海の魚や貝を食料とし、多くの人々が暮らしていた。松島沿岸には約70の貝塚が残っており、東北有数の貝塚の宝庫としても知られています。多島美を誇る松島は、何時の時代でも名高い評判を誇っていました。
風情ある眺めは平安時代の都の人々にとってあこがれであり、さまざまな文学や絵画、歌枕に登場しています。瑞巌寺は、慈覚大師円仁によって平安時代初期に建立された天台宗延福寺が始まりでした。奥州藤原氏2代目基衡から法華経10万部を奉納されるなど保護を受けた後、鎌倉時代には執権北条時頼によって関東御祈祷所となり、幕府の保護を受けるようになりました。松島には、時頼廻国伝説が残っています。
1248年、時頼が修行僧として延福寺を訪れた際、祭礼での壮大な神楽に大声で感嘆の声をあげてしまった。これに怒った衆徒たちに危うく殺されそうになりつつも、なんとか許しを得て休息のために入った岩窟の中で僧と出会う。彼の謙虚な振る舞いに心を打たれた時頼は鎌倉に戻り、1000人の軍を率いて延福寺の天台宗衆徒3000人を追放した。寺は禅宗に改宗し、寺号も円福寺と改めました。
時頼と法身禅師が出会ったとされる岩窟は、今も瑞巌寺境内に残っています。江戸時代になると伊達政宗によって大規模な再興が行われ、瑞巌寺として現在のような荘厳な大伽藍となりました。以後、伊達家の菩提寺として隆盛を極めるようになりました。江戸時代の松島は、奥州街道の一つである浜街道があり、鹽竈神社や金華山への参拝者が多く通る町でした。また、江戸幕府へ献上する米や塩の中継地的役割を担い、多くの蔵が建つ、にぎやかな宿場町となっていました。近世に入り、観光地として栄えるようになった現在の街並みは、道路の位置などはほぼ変わらず、往時の面影を随所に残しています。