今日は節分
お正月が終わったかと思ったら、今日は、もう節分です。オヤジが子供のころは、クリスマスにはじまって、大晦日があり、お正月、そして節分。そして明日は立春という一連の流れが、季節の感じ方だったということです。それというのも、ものごとは、始まらなければ終わらないわけですが、入学式からはじまり、やがて卒業式を迎える。確かにその通りに世の中は進んでいますが、長いスパンで考えると、終わらなければ始まらないようにも見えてきます。例えば、お正月があったから、大晦日を迎えることになったはずですが、大晦日がなければ、お正月が来ないともいえるような気がしないでもない。世界平和だって、紛争が終わらなければ始まらない。つまり、よく考えてみると、「終わり」と「始まり」の関係は、「鶏」と「卵」の関係と同じで、科学的に考えたときの順序と、実際に生じた現象あるいは事実とは必ずしも一致しないこともあります。最近よく耳にする「終わりの始まり」などという言葉も、そんな感覚を表現しているのかもしれません。松尾芭蕉の句に、「正月は冥土の旅の一里塚、目出たくもあり、目出たくもなし」というのがありますが、これは正しく、始まりと終わりの関係を言い当てているようですね!
今日は、こんなややこしい話をするつもりではなかったのですが、どうしても、「立春」という希望をイメージする季節と、受験という重苦しい雰囲気のバランスをどうとらえて、この時期を過ごしたらいいか、悩んでいるご家庭も多いのではないかと思うと、つい身につまされて、とりとめのないことを云ってしまいました。本当に言いたかったことは、人生において、「禍福は糾える縄のごとし」というように、試練と幸福は交互にやってくる。別の言い方をすれば、試練に挑み通り抜けなければ、幸せは訪れないといってもいいかもしれない。要は、試練をいやなこと、ましてや不幸などと考えないで、むしろ、楽しむくらいの図太い姿勢が、この時期の過ごし方ではないかということをお伝えしたかったのです。「他人事だからそんな無責任なこと言うのだ!」とお叱りを受けるかもしれません。しかし、受験といえども、長い人生の中では、幾多の試練中の一つ。ここを通り過ぎれば、後は順風満帆で一生を過ごせるわけではありません。言ってみれば、入学試験などは、予防注射のようなもので、頭で考えるほど痛くはないものです。
こうした経験を今まで、数えきれないほど経験してきた大人が、受験生と一緒になってピリピリしていては、かえって空気が淀んでしまいます。「案ずるよりは生むが易し」ということもあるので、お互いに平常心で立ち向かうことをお勧めします。わが家のオヤジとお母ちゃんは、お互いに全く性格が違うと思っているようですが、ボクから見ると似ているところもあります。それは、やらなければならないことは、必ずやるということです。ただし、いつやるかは未定なだけです。どうして、そんなにズボラなのかというと、たぶん、それを終わらせると、次にやらなければならないことが見えてくるので、それが視たくなるまで、今を楽しんでいるようです。何十年も同じ飯を食べていれば、だんだん似てくるのは当然です。何しろ、血や肉、骨まで同じ栄養分でできているわけですから。それとは知らず、お互いに、自分のやり方が合理的だと信じて疑わないのですから、立派なものです。とかく人生というものはそうしたもので、永遠に終わらない不思議ものです。その証拠に、終わったという人の声を聞いたことがありません。