平成から令和へ
民がゴールデンウィークで沸き立っている最中、皇居内では「退位礼正殿の儀」を経て新元号が「平成」から「令和」改まり、「剣璽等承継の儀」「即位後朝見の儀」が、厳かにとり行われました。そして一昨日(5月4日)には、天皇、皇后両陛下を始めとする皇族方による「即位を祝う一般参賀」では、14万人を上回る賑わいだったと報じられました。また、アメリカやロシア、中国、イギリスなどの諸外国のメディアも新天皇の即位と新元号「令和」への改元を伝えました。警備体制が万全だったのか、国民性によるものかはわかりませんが、いずれにしても無事に令和を迎えられたことは、私たち国民にとっても期待が持てる時代の幕開けを予兆するものとなりました。解決を迫られる問題が山積しているとは言うものの、考えてみるまでもなく、何も問題がなかった時代などこれまで一度もなかったので、それほど深刻に受け止める必要はないように思います。平和というとすべての人々が幸せな生活を送れる社会を意味するように感じますが、実際には、誰にでも幸せになれるチャンスが与えられるという意味であり、何もしなくても幸せが向こうからやってくるわけではないのです。
昭和や平成の時代も、そうしたチャンスを掴みやすい環境を整えるべく試行錯誤を繰り返し、一旦手に入れた権利は失われることのない時代を築いてきたように思います。こうした考え方には異論もあることは承知していますが、権利と義務は裏と表の関係にある以上、少し義務を怠ったと厳しく自己評価してやり直せば、権利を行使するチャンスは自ずと開けると考えれば、「令和」には期待の持てる時代と位置づけることも可能だと思います。これまでもそうでしたが、これからは特に勉強することは、権利でも義務でもあり、これを怠っては幸せを掴むチャンスはやってくるはずがありません。もっとも、勉強は机に向かってするばかりが能ではありませんから、厳しい社会を生き抜くために工夫をすることも大事な勉強です。そしてその方が机上の勉強より何倍も苦しいが、そこから得られた成果を実感した時は、その何十倍、いや何百倍も楽しいものです。成功に向かう道も、失敗に至る道も、分岐点に至るまでは全く同じ道であるはずですから、最初の一歩を踏み出すことが大事だということでしょう。
弊社の先代社長(古人)がオヤジに言ったことがあるそうです。先代社長は裕福な家庭に生まれましたが、あえて、現在の店を独力で始めました。そこには当然苦労もあったようで、そのたびにお父さんから、そんな苦労をしなくても実家に戻ってこい。家族の面倒は保証するといわれたそうです。しかし、先代社長は、「人から与えてもらった幸せは、本当の幸せではない。自分で苦労して掴むのが本当の幸せだ!」と言って、きっぱり支援を断ったそうです。「令和」の時代も数々のドラマが展開されることでしょうが、何もしないで「タナボタ式の幸せ」を願うのであれば、もしそれが叶えられたとしても、結局はその費用(ツケ)を払う羽目に陥るのも自分であることを自覚しなければなりません。それは今日の日本の財政赤字を見れば一目瞭然のことです。制度としての「働き方改革」には賛否両論があるのは当然です。しかし、それよりも大事なことは、自分の生活設計は自分の裁量によって立てるのが原則ですから、公的支援はあくまでも敗者復活のセフティネットと位置づけるべきものです。自分の働き方のギアをもう一段上げる機会が新元号「令和」に改まった今年だと信じたいものですね。