仙台七夕まつり(その3
この大祭典の時に仕掛けものが初めて披露され、舌切雀の出し物が、見物客の行列に渋滞を招いたとの記録も残っている。ちなみに、当時、七夕を観た三越本店の重役は「紙で作る美しい飾り、優美に短冊に歌を書くなどは江戸っ子気質にも通じる。ぜひ東京にも移したい」と言ったとか。また、ある外国人は「全市が美しく飾られて驚いた。ハリウッドにも移したい」と礼賛したとか...。参加町内会が競い合い、表彰したのもこの年からだ。賞状文案に「仙台市年中行事随一の七夕祭りと併催された中元売り出しで、店舗内外の装飾、商品の整理が模範である」とあり、笹飾りだけではなく、商売も懸けていたようだ。この年に優勝したのは地元大町五丁目共同会だったという。
15町が参加した翌4年も、やはり大町五丁目が一等を受賞し、賞金は20円。大商店が並ぶ五丁目は、一等地に負けない人気を呼び、県内外から見物客が訪れ負傷者が出るほどの混雑だったそうだ。こうして仙台商人の心意気が実を結び、仙台七夕は全国随一との評判を上げていった。しかし、太平洋戦争に突入すると華美なものはすべて自粛され、終戦後も混乱状態は続く。それでも昭和21年、まだ焼け跡の残る東一番町で、52本の笹飾りが立った。河北新報は「涙がでるほど懐かしい」と大きく書き、道行く人々はみな立ち止まり、眺め愛しんだという。物資不足の中、無理を押して七夕を飾りつけた仙台商人の心意気は本物だ。
「以前、藤崎の隣に店があった森天祐堂主人、森権五郎さんの活躍も素晴らしかった」と、伊勢さんは振り返る。「七夕のくす玉飾りを工夫したり、笹竹一戸一本を声がけしたり。飾り付け指導にも出向いていました」。今でこそ、大きなくす玉が吹き流しの上に当たり前のように飾られるが、その昔はなく、あっても簡素なものだったらしい。ザルを2つ合わせて球状にし、さくら紙を飾ったのは、森権五郎氏のアイディアだ。また氏は、包装紙や広告チラシを利用することも提唱。「やはり熱心な西堀薬局婦人の鈴木みさをさん達と連れ立ち、飾りの指導に駆け回っていました。